不確定申告

tanaka0903

2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

うひ山踏み

以前一番うまいところをよけて食えとなどと言うものを書いたが、 またしても『うひ山踏み』を読んでみることにした。 『うひ山踏み』はおそらく宣長を学ぼうと思う人が最初に読むものではなかろうか。 以前は岩波文庫にもあって、絶版になってしまったようだ…

後白河の后

後白河の后はけっこう複雑だ。 親王時代に源懿子を后とするが、 懿子が死んだのが1143年、生年は1116年とされている。 西行が1118年生まれなのでそれより年上であり、 親王は1143年に16歳。 懿子は27歳。 ちょっと信じられない。何かの間違いではなかろうか…

千載集

千載集を読んでいるのだが、なかなか面白いなあ、歌がというよりも、時代背景が。 藤原道長、赤染衛門、紫式部、和泉式部、清少納言、藤原公任などが多い、というか、目立つのは、先の勅撰集の流れというのもあるかもしれんが、 俊成の文学趣味を反映してい…

類題集

宣長に『安波礼弁』というものがあるが、これは宣長が京都から松坂に帰ってすぐに寄稿されたものだという。 だから、「或人、予に問て曰く」と冒頭にあるのは、 松坂に帰ってから誰かに聞かれたというよりは、帰郷直前くらいに、 同輩らと議論していてそのよ…

異風に落ちる

宣長の歌論というのは、複雑で壮大だが、どうもすっきりと納得できないところがある。 宣長は新古今の頃の和歌が一番良い、と言っている。 そういう評価をする人は多い。 しかし、では、新古今的な歌を詠めばよいと言っているかというと、必ずしもそうではな…

秋の夕暮

題しらず さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮 1139-1202) 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (西行 1118-1190) 西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋…

字余り

以前書いたことの繰り返しになるが、 「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、 「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。 そういう論法に従えば「なぜ宣…

エルトゥールル

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。 エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。 英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬…

セルジュークの系譜

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。 このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、 Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジューク…

ユニバーサルスクロールではまった。

左手でトラックボールを操作して上下左右にスクロールして、右手でペンタブのペンを持って、 あと、intuos4のホイールでズームしようと思ったのだが、なかなかうまくいかない。 まず、ロジテックの setpoint 6.32 というのが、何度やってもインストールに失…

しわい

あれ、「しわい」は方言ではなくて普通に「けち」と言う意味の古語だと思って調べてみると、 岩波古語辞典によれば『驢鞍橋』という、鈴木正三の言行を弟子が記録したものに出るらしい。ということは、江戸初期くらいからの言葉だろうか。

養子

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。 例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、 養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。 独身で子供がいない…

王家

天皇家を王家という言い方がどうかというので盛り上がっているようだが、 『日本外史』に限って言えば、 先王の必ず躬ら之を親らしたまふは、其の旨深し。 吾外史を作り、はじめに源・平二氏を敍するに、未だ嘗て王家の自ら其の権を失ひしを歎ぜずんばあらず…

ガエータ

google earth 画像の使用 によれば、 Google のロゴの帰属を含む、著作権および帰属を保護するという条件で、このアプリケーションからのイメージを個人的に (ご自身のウェブサイト、ブログ、またはワード文書などで) 使用することができます。 ということな…

マラズギルト

Battle of Manzikertや Alp Arslan、 Roussel de Bailleul などを丹念に読んでわかることは、マラズギルトの戦いというのは、 残された記述には矛盾や不完全なことが多く錯綜しているということと、 史実のまま小説にしてもごちゃごちゃしすぎてあまり面白そ…

花札

『虹の深淵』というタイトルの小説を書こうかと思っている。 これは江戸時代の風俗を描いているが、実際には現代日本の二次創作の闇について書きたいのである。 しかし今の時代を描くのはあまりにどろどろしてしまうので、江戸時代ということにするわけだ。 …

二次創作

今の世の中にあふれているのは、どれも一次創作のふりした二次創作だわな。 続編とかもある種の二次創作だしな。 著者が死んでもスタッフだけで制作は永遠に続くしなあ。 そんなんばっかだわな。 同人なんて二次三次は当たり前でひどいと十次二十次。 要する…

風雅集

岩佐美代子『風雅和歌集全注釈』を読み始めた。上中下三巻たっぷりある。 も少しコンパクトでもよかったのだが、まあいいや。 為兼 降る雪も山もや変はる変わらじを心よりこそ春は立ちけれ 今日に明けて昨日に似ぬはみな人の心に春の立ちにけらしも しづみは…

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年 宝暦7年8月6日 (1757/9/18) ○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ご…

排蘆小船

『排蘆小船』だが、万葉集に出てくる 11: 2745 湊入之葦別小舟障多見吾念公尓不相頃者鴨 (湊入りの葦別け小舟障り多み吾が思ふ君に会はぬ頃かも) 12: 2998 湊入之葦別小船障多今来吾乎不通跡念莫 (湊入りの葦別け小船障り多み今来む吾をよどむと思ふな) 或本…

宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。 大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、 さらにネットで検…

古今伝授の真相

この「古今伝授」なる珍現象を考えるに、最初にでっちあげたのは東常縁という人だったに違いないが、 宣長も言っているように彼はただの小者であって、とやかく批判しても仕方ない。 三条西実隆と言う人は、ごく普通の教養人のような人だったろう。 宣長は、…

宣長の儒学

宣長は、京都の堀景山の門下生となって儒学、つまりは漢学を学び、その間はずっと漢文で日記をつけた。 思うに、公家はずっと公式の日記を漢文で書いてきた。 定家の日記にしても、九条兼実の『玉葉』にしても、『吾妻鏡』にしろ漢文だから、 ともかく漢語を…

逍遥院実隆

古今伝授の祖とされるのが室町末期・戦国初期の武将の東常縁。 本家は関東の千葉氏であるという。 お家騒動があって千葉氏が下総千葉氏と武蔵千葉氏に分かれて戦った。 東常縁は将軍足利義政に派遣されて、大石氏を頼り葛西城に居た武蔵千葉氏の実胤、 太田…

宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。 生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」 十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、 よみはじ…

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。 それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。 景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰…