歌合
在民部卿家歌合は現存最古の歌合だが、 州浜を使ったよとか、右と左に分かれて勝負したよということが書かれている。
亭子院歌合の序はもっと詳しくうだうだとそのようすが書かれている。 右の服の色は何色で左の服の色は何色で州浜を巳の刻に作ったとかどうしたこうしたとか。
州浜(すはま)とか型(かた)というのが、今の我々にはよくわからんのだが、 巨大な生け花のオブジェのようなものだったと思われる。
盆栽みたいなのではなくて、 冠婚葬祭とか歌合とかそんなイベントのときに作られる生花みたいなもの。 それをどこかの海辺や池にみたてて作ったりとか。 で、そこに菊を挿したりする。 その州浜を見ながら歌を詠んだりもする。
宴筵というが、殿上人以外も参加したはずだから、歌合は、 多くの場合屋外に筵を敷いて行われたのではなかろうか。 屋外だから州浜をちゃちゃっと作るというのはそれほど難しくはなかったはず。 屋内だと巨大な花瓶が必要になろう。 平安初期だとかなり難しいと思う。 少なくとも宇多天皇のころは屋外だったのではなかろうか。 服の色がどうしたこうしたというのもやはり屋外のイベントだったからじゃあるまいか。 屋内だと服の色なんてよくわからんよね。 屋外で、花見のとき歌を詠むような感覚ではなかったか。
天徳内裏歌合は清涼殿でやったように書かれている。 州浜が遅れて(いかにもあり得そうなハプニングだが)暮れから始まって、 翌朝までやったという。 さすが内裏。清涼殿すげえ。 村上天皇の時代までくるとそんだけイベントも本格的で派手になったということだろう。 つか清涼殿くらいなら左右に分かれて何十人も入れただろう。
治承二年別雷社歌合には歌人が六十人参加したとある。 上賀茂神社だよね。 「天晴。別雷社の広庭に歌合の事有り」とあるから、明らかに庭でやってるわな。 上賀茂神社にはいくらなんでも六十人も入れるような建物はないよなあ。 無い無いぜったい無い。
で、後世になると歌合はもっぱら室内でやるようになる、たぶん。 そもそも屋内に州浜を作るのはたいへんだから、 屋内でやるようになると自然と州浜は廃れて、 その代わり床の間に花を生けるようになったんじゃなかろうかねえ。
在民部卿家歌合だと、在原行平邸ということだから、まあ、 殿上人でなくても邸の中に上がったかもしれんが、 当時は部屋の中だと案外暗くて字も読めぬ。 雨がふってなきゃ、屋外の方がましということはあったと思う。
寛平御時后宮歌合、是貞親王家歌合というのは歌合とは言っているが実際の歌合ではなく、 判者もおらず、 わらわらと歌を持ち寄っただけだったような気がする。