和歌の道は花鳥風月から入るべし
根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。
春の朝うぐひすの声は聞かねども根岸の里はのどかなりけり
人の歌を添削するというのは難しいものだ。 私なら、
うぐひすのはつねはいまだ聞かねども根岸の里に春はきにけり
とでも詠むだろうか。 特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。
「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、 逆に扱いに困るのだが、 実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。
上野山鳥はなけどもうぐひすの声はいまだにとどかざりけり
わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、 「鳴く」は「すだく」として、
ももちどりうへのの山にすだけども いまだまじらぬうぐひすのこゑ
とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。
花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。 今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。 いきなり時事問題を扱ったり。 恋人と逢った別れたと。 あれは私は好きではない。 俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。 でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。
でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。 使い古された単語ではなく、言い回しではなく、 写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。 目の前の光景をそのまま切り取って。
それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。 まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。