不確定申告

tanaka0903

内在律

筒井康隆の『短篇小説講義』p. 10

小説とは、何を、どのように書いてもよい自由な文学形式である。

小説 == novel とは何か自由なもの、新しいもの、 それまでの戯曲や詩などの文芸形式を呪縛していた「外在律」に縛られない文芸形式だと、 筒井康隆は断言する。 純文学的にはそうなんだろうけれども世の中に溢れている小説の多くはそうではない。 むしろ自由と新しさを悪魔に売り飛ばした小説のほうが売れている。 流行作家は常に自己の内なるメフィストフェレスと葛藤している、はずだ。

「外在律」という言葉は「内在律」から派生した言葉で、 筒井康隆の造語なのかもしれない。

「律」とはつまり詩の「韻律」のことであり、 和歌で言えば句の長さ、漢詩で言えばそれに加えて平仄や押韻のことである。 詩を詩たらしめているものが「韻律」であり、 「韻律」のないものが散文である。

或いは、戯曲(演劇)の場合には三一致の法則というものがあって、 一つの場所、一つの時間で、一つのストーリーだけが完結するというもの。

これらの「外在律」を取っ払った新しい自由な文芸はすべて小説であると言いたいわけである。 しかしながら本当に自由な小説というものが書けるかというと、 誰もが結局は過去にどこかで読んだような小説しか書けない。 意識して新しいもの、自由なものを書こうとしなければ、 テレビドラマや映画で見たような、 同じようなストーリーが再生産されたようなものができてしまうが、 それはほんとうは自分が思いついたものじゃないのだという。

内在律というのは韻律を捨て去った現代の自由詩にそれでも残る独自の韻律、 もしくは、詩には直接現れないが詩人の心の中には存在している韻律という意味だろう。 形式的には詩ではないけれども、誰もが直感できる詩的内部構造、 音声としてではなく、印象として知覚できる韻律だと言いたいのである。 だが、「内在」「印象」「直感」とは何か。

短篇小説の場合、特にその作法がうんぬんされるのは、それが短い形式であるために、日本で好まれる私小説的な短編などは、ともすれば韻律のない自由詩や新編雑記の随筆などと区別がつかなくなり、また、意図するところも似てくるためで、いわばこれが世に短篇小説作法の満ちあふれる第二の原因となっている。

筒井康隆ほどの人でも、いや筒井康隆であればなおさら、決して断言しているわけではないが、岩波新書で、短編小説と自由詩には本質的な差はないと明言するのはそれなりの勇気が要ったのではなかろうか。 ごく短い随筆的な掌編小説のたぐいは改行の無い自由詩と区別できないし、自由詩は改行だらけの散文である、と私は思うし、筒井康隆も腹の中ではそう思っているだろうし、多くの人も言葉に出して言わないだけでそう思っているのに違いない。 ともかく自由詩を詩に分類したければしても良いが、自由詩こそが現代詩の主流だということは言ってほしくない。 現代自由詩はゲテモノとして扱ってもらいたいのだ。 そう、「ポエム」という名のなにやらよくわからぬゲテモノであって一般的な意味における「詩」ではない。 ゲテモノならば前衛芸術や前衛音楽にはいくらでもある。 そういうものといっしょくたにしてほしい。 こっち見んな、と言いたい。

小説がいわば何でもありの自由な文芸形式であるのはもともとそういうものだから良い。 しかし自由詩を詩の典型にしてほしくない。 小説は一番新しい文芸形態なんだろ。だから伝統なんてなくても良いんだよ。 でも詩には伝統というものがあるだろう。詩はもっとも古い文芸形態ではないか? そして伝統や歴史というものが詩のもっとも重要な「内在律」ではなかろうか? いろんな人がこれは「散文」だ、とは言わず、「詩」だとか、「短歌」だとか、「俳句」だ、と「主張」 する。その「根拠」はなんなのだろう。 あるいは詩であるかいなかは「主張」することにあって、「根拠」など要らないと言いたいのか。 散文万能の現代では、みな散文を書くくらいの軽い気持ちで詩を書いてしまう。 しかし彼らは何ゆえに詩を書くのか。 彼らの心の中に何か内在する韻律があるのだろうか? 私は憶測してしまう。彼らは、詩という歴史と伝統をかぶりたいから、 伝統のかけらもない自分の散文を詩と同じような形に偽装して、 そしてそれを詩であるとか短歌であるとか俳句であるなどと称して、 安易に長い文芸の歴史に連なろうとするのであると。 我こそはホメロス柿本人麻呂の正統な末裔であると主張したいのだ。

筒井康隆は「内在律」を「伝統」「秩序」「権威主義」「束縛」「世界観」「形而上学」などと言い換えたりする。

エリオットなんてひとが伝統、伝統といいはじめた。つまりさ、昔からあった一流の文学作品ってものは、そういうものが集ってこの、自然に、理想的な秩序を作っておるのだ、ちゃんとまとまっておるのだ、それが伝統だってわけ。もし新しい文学が生まれるとしたら、その秩序を乱さないように、その伝統の中へすっぽりおさまるような作品である筈だっていうの。それ以外の文学は一流じゃないっていうの。権威主義ですよね。(『文学部唯野教授』p.29)

作品を一つも発表せぬ人も心の中に世界観が完成している、などという。 しかし私たちは彼に作品を見せてもらわぬことには彼の心の中にどんな世界観が存在しているのか、 そもそも彼がほんとうに独自の世界観を持っているかすらわからぬではないか。 ジョン・ケージの「4分33秒」じゃあるまいし。 ま、現代アートにはそういうおかしな連中がたくさんいる。 ろくでなし子とか。 それはそれで仕方のないことだ。

ドイツ詩を翻訳していると感じることがある。 例えばハイネを日本語訳したとたんにその韻律は死ぬ。 四行あるところをどうしても三行にまとめたくなる。 それをもとのまま四行で書くのはいかにも冗長だ。 というのはもともと韻律のために冗長に書かれているからだ。 しかしハイネの詩を散文に訳してもその「詩の魂」というか「詩情」というものが残るではないか。 ハイネには「ハイネらしさ」が、ゲーテには「ゲーテらしさ」が残るではないか。 それが形を変えてもなお残る、ハイネの、ゲーテの、詩の本質ではないか。 定型詩を自由詩に翻訳しても、その心のうちなる内在律の痕跡が残っているからには詩なのである。 どうしてもそう思いたくなる。 しかしそれを認めたくない気持ちも強く残る。 というのは、もともとのハイネやゲーテの詩は紛れもない定型詩だからだ。