不確定申告

tanaka0903

俊成

藤原俊成は葉室家の養子だったとき、葉室顕広と名乗った。 葉室家の養父は葉室顕頼と言ったから、養父から「顕」の字をもらったわけである。

葉室顕頼の没年は1148年。 俊成が美福門院加賀と結婚したのは、長男・成家の生まれた年(1155年)から推測するに、 顕頼が死んでだいぶしてからだろう。 俊成1114年生まれ。 41才にしてやっと跡継ぎ出生というのはずいぶんおそい。 家族も養えないくらいに冷遇されていたということだろうか。 美福門院加賀が連れ子で再婚、俊成が初婚というのも思えば不可解だ。

俊成の姪にあたる徳大寺忻子が後白河即位とともに入内したのが1155年(当時忻子21歳。妹多子は15歳)。 俊成の運はこの前後から好転し始めたはずであり、 やっと一家をかまえ、妻を持ち、子を産む経済的余裕がうまれたのに違いない。

葉室家を離れたのは俊成と改名した1167年頃であったはずだ。 明らかに俊成の亡父・俊忠から「俊」の字をもらっているのである。 このとき成家は12才、定家は5才。

俊成の長男・成家だが、明らかに俊成から「成」の字をもらっている。 今日的感覚で言えば成家が俊成の嫡男ということになる。 成家は55才で正三位だからそれなりの出世だ。