新三十六歌仙
九条良経は土御門天皇の摂政太政大臣(実質的には後鳥羽院政のトップ)。1206年死去、38歳というからまだ若い。 新古今の寄人で仮名序(どうという見所もない文章)の著者。歌もたくさん採られている。
天皇や皇族で歌のうまいのは当たり前だが、摂政関白太政大臣で歌がうまいというのはかなり疑ってかからねばならない。 後鳥羽院も一応良経をほめているようだが、かなり割り引いて考えねばなるまい。 全然ダメとは言わないがかなり陳腐。 それは慈円にも言える。
良経の娘立子は順徳院の中宮。
良経の長男道家の三男頼経は鎌倉将軍(実質的には承久の乱より前から)。 その次の将軍が宗尊親王(1252-)。
面白いのは、頼朝の実母妹坊門姫は一条能保の室となって二人の娘を産み、 その一人(名前不詳)は良経の室となって道家と立子を産み、 もう一人(一条全子)は西園寺公経に嫁いで倫子を産み、 道家と倫子の子頼経が実朝の死後鎌倉将軍になっている、ということである。 つまり、道家と倫子はいとこどうしであり、共通の祖母・坊門妹を持つ。 道家と倫子の子・頼経は坊門姫の二重の曾孫であることになる。 従って実朝が死んでいきなり藤原氏が鎌倉将軍というよりは、かなり源氏の血筋というものが意識されていることがわかる。
実朝の妻が坊門信子なのだが、坊門姫という名と何か関係があるのだろうか。
新三十六歌仙 面白い顔ぶれだよなあ。 政治的にかなりきな臭い連中が集まっている。 歌仙といっても良い人もいるがそうでない人もいる。 これらの人々が実質的には百人一首の成立に関与していて、かつ、 宗尊親王の係累であったのだ。
俊成卿女。俊成の実の孫娘。ようするに定家の身内。
藤原為家。為家は定家の息子。
式子内親王は定家の門弟。というかかなり親しい妹のような存在であった。
鴨長明。新古今編者の一番下っ端。
後鳥羽院、土御門院、順徳院。いわずと知れた承久の乱の三院。 雅成親王、道助親王は後鳥羽院の皇子。雅成は実朝亡き後鎌倉将軍候補となったが、後鳥羽院が拒否。
九条良経、西園寺公経。後鳥羽院時代の権力者。 慈円は良経の叔父。つまりは九条家。 九条道家、九条基家は良経の子。 西園寺実氏は公経の子。
後嵯峨院、宗尊親王。宗尊親王は後嵯峨院の皇子。後嵯峨院は土御門院の皇子。
行意。誰?
源通具。新古今寄人。
藻壁門院少将。後堀河女官。
藤原知家
藤原有家。新古今寄人。
葉室光俊。宗尊親王の歌の指南役らしい。
うーん。 定家、家隆、為家、実朝、宗尊親王あたりまでは歌仙と言ってもよい。 式子内親王を入れるのもよい。 後鳥羽院、順徳院、土御門院を入れるのもよい。 あとはどうなんだろう。 精査してみないとわからん。
ていうか新三十六歌仙とかいうのを作る感覚が、小倉百人一首みたいな切りの良い数合わせをするのに似ているんだよなあ。 両方とも同じようなやつが企んだのではないか。 日本三大なんちゃらとかいうのと同じで、頭数あわせで権威付けしようとする。
そういや宇都宮頼綱も、京都鎌倉宇都宮で日本三大歌壇とかぬかしてたらしいが、 恥ずかしいからやめろよ宇都宮。
ていうか、すべてに宗尊親王が直接絡んでいるような気がしてきたよ。 その取り巻き連中は九条道家、立子、基家の三兄弟。 プラス、西園寺実氏と倫子の兄弟。 すごくやばいにおいがするなあ。 特に基家とか。年齢的にもやばい。1203-1280。 続後撰集が出たときには40代後半。 父に似て(笑)歌は下手の横好きで、なかなか定家や為家には認めてもらえなかった。 後鳥羽院遠流歌合には歌を献じている。 続後撰集にはやっと歌を採ってもらったが為家には反発している。 なんかもうこいつ悪役の要素をすべて兼ね備えてるなあ。 馬鹿がわらわらとわいてきている感じ。
宗尊親王かあ。 けっこう大物がかかってきた感じだわな、小倉百人一首。 あとは為家と九条基家。 定家・為家はともかくとして、後鳥羽院に近すぎる九条家や西園寺家は、北条氏はいやがるわな。 で、土御門院系の後嵯峨院の皇子の宗尊親王というのは比較的ニュートラルで、 北条氏にはよかった。 つまり、やはりというか、後鳥羽院と順徳院の名誉回復は、土御門院系から鎌倉幕府に、 やんわりと要請があったということだろう。
たいへんどろどろとしてまいりました。 ある意味、百人一首成立の真相とかいうよりもこういう政治の話だけでおなかいっぱいになりそうだわー。 和歌の人たちってこういうのあまり掘らないよな。 ていうか、小倉山荘で定家がどの歌を選んだかなんてことはやはり、 わりとどうでも良いことなんだよ。 定家の権威を借りて承久の乱の名誉回復をしようとしたのが百人一首なんじゃないか。