芸術その他
最近は自分で読んだ方が人に解説してもらうより話が早い(ことが多い)。
青空文庫をいろいろ拾い読みしているのだが、 芥川龍之介の芸術その他
内容が本で形式は末だ。――さう云ふ説が流行してゐる。が、それはほんたうらしい嘘だ。
まあ、彼がいつも言っていることだ。 ストーリーのおもしろさがまずあって文章のうまさは後だという説に、芥川はいちいち反論している。
芸術は表現に始つて表現に終る。
別の言い方をしてみている。 ただこの言い方はいかにもいやらしいから、
しかし誤つた形式偏重論を奉ずるものも災だ。恐らくは誤つた内容偏重論を奉ずるものより、実際的には更に災に違ひあるまい。
などと言い訳している。
危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。
言いたいことはわかる。
芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
この龍というのはいかにも「鼻」の二番煎じに思えたのだろう。読者のそのような批判をあらかじめ予想して、
が、予に談議を致させるよりは、その方どもの話を聞かせてくれい。次は行脚あんぎゃの法師の番じゃな。 「何、その方の物語は、池いけの尾おの禅智内供ぜんちないぐとか申す鼻の長い法師の事じゃ? これはまた鼻蔵の後だけに、一段と面白かろう。では早速話してくれい。――」
などと最後に言い訳している。
別に「鼻」やら「龍」やら宇治拾遺物語を元ネタに短編を量産したってひとはとやかく言わないと思うのだが、芥川にとってそれは停滞と思え、停滞は退歩であり、退歩は死だと感じたのだう。
売文問答。 亦一説?。 文学好きの家庭から。 文章と言葉と。 少しおもしろい。
文芸鑑賞講座。 長い。
一人の無名作家。 なんだかよくわからないがそういう人がいたと紹介したかったのだろう。