不確定申告

tanaka0903

新葉和歌集関連皇族一覧

あまりにも謎。あまりにも闇。 尊良親王後醍醐天皇の皇子であるが、越前国(福井)で戦死した。 しかし、明治になってから、 後醍醐天皇から譲位され東山天皇と称したと主張する人が居て、 北陸朝廷と言い、 吉野朝廷は偽装であるとする。 また尊良親王の皇子である守永親王興国天皇と称したと言う。 まあ、明治になって南朝が正統とされたことによって、 南朝の皇子たちは日本中あちこちに転戦してたので、 その子孫が残ってる可能性があって、 しかも南朝の歴史はあまり正確には残ってないから、 自称天皇というのがぼろぼろ出てきたということだろうな。

なるほど、後南朝というのもあるんだな。

北畠親房新葉和歌集には「中院入道一品」という名前で出てくる。 ぱっと見、そんなすごい歌ではない。 宗良親王の私家集「李花集」にも北畠親房の歌が多く採られているという。 さて、どうすれば読めるのだろうか。後亀山天皇御製は「宗良親王千首」奥書にもあるらしい。

後醍醐天皇の妃で後村上天皇の母、新待賢門院・阿野廉子の歌もちょっと面白い。

北条氏の末裔・北条時行南朝の一武将として戦うことを許されて、 宗良親王とともに遠江の井伊高顕が治める井伊城に入り、 音信不通になったそうだが、 要するに南朝の武将は北条時行にしろ宗良親王にしろ、ろくな記録が残ってないということだろう。 必ずしもどこかで野垂れ死にしたというわけではなさそうだ。

上野太守とは上野国国司ということだが、親王なので太守と言うらしい。 中務卿、太宰帥なども同様に親王のための名目的な役職らしい。

懐邦親王後醍醐天皇の皇子だとあるが、 後醍醐天皇の皇子はの名はみな漢字二字で二字目は「良」であり、 懐邦親王は唯一の例外。 また新葉和歌集には懐那親王とも書かれている。 一方で鎮西方面で菊池市とともに戦った懐良・征西将軍という親王も居る。 極めて紛らわしいのだが、 実は懐邦は懐良なのではないか。

また後村上天皇でさえ、義良、憲良の二つの名前がある。 法親王もいて、皇子の人数もいかにも多く、重複している可能性もあるよな。