宣長安永二年
安永二年は1773年。 本居宣長は1730年6月21日生まれなので、 満年齢は43才か44才。
この前年、明和九年に吉野に花見に行き、菅笠日記を書いている。
石上稿安永二年
去年の春よし野の花見しことを思ひ出でて
春くれば花のおもかげたちかへり霞にしのぶみよし野の山
また、石上稿補遺安永二年に
安永二年花五十首のうち
めづらしきこまもろこしの花よりもあかぬ色香は桜なりけり
同じ歌は鈴屋集一にも。また同年の自画像にも。
我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり
此花になぞや心のまどふらむわれは桜のおやならなくに
桜花ふかきいろとも見えなくにちしほにそむるわがこころかな
この三首は「枕の山」の「桜花三百首」(寛永十二年、1800)から。最晩年の70才のときの歌。
宣長は初期の「あしわけをぶね」の頃から晩年の「うひ山ふみ」の頃まで、ほとんどその思想や嗜好に変化がないが、 桜を好きになったのはその途中からであって、やはり吉野に花見に行ったというのが一番のきっかけだろう。 そして晩年に近づくほどにその感情は強く激しくなっているようだ。
宝暦十年(1760)宣長の歌に、ある意味唐突に、
もろこしの人にみせばや日の本の花のさかりのみよしのの山
とあるが、これは明らかに真淵の
もろこしの人にみせばやみよしのの吉野の山の山桜花
のまねだと思うのだが、宣長と真淵が出会うのは宝暦13年(1763)のことである。 そもそも上の真淵の歌がいつ詠まれたかも不明。 しかも、浜口宗有という人が
もろこしの人に見せばや大和なるよしのの山の花の盛りを
という歌を詠んだらしい。 ますます謎は深まった。
ふーむ。宣長は生涯に三度、吉野に行ったらしい。 宣長の父が吉野水分神社に祈願して授かった子が宣長で、13才のときにお礼参りに。 次に42才に花見に(菅笠日記)。 次に69才のとき(若山行日記、吉野百首)。 吉野百首に
命ありて 三たびまゐ来て をろがむも この水分の 神のみたまぞ
まさきくて 三たび渡りし 吉野川 ももたび千たび またも渡らな
とあるので、間違いない。 こうしてみると、吉野と宣長とはもともと因縁があったわけだが、42才のときの花見で、 余計に吉野や山桜というものに、のめりこんでいったのかもしれん。
真淵の歌は、賀茂翁歌集拾遺に採られていて、 「よし野の花をみてよめる」という長歌の反歌として詠まれているものだった、というところまではつきとめた。 ただし、単独の和歌として採っている歌集もあるらしい。