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tanaka0903

賀茂真淵の歌

本居宣長全集を読んでいると、村岡典嗣の評として(やや抜粋)

歌人としての宣長は、遺憾ながら第二流、もしくは以下の評価を甘受せねばなるまい。 文学や詩歌に対する、未曾有のすぐれた理解や見識を示した彼にして、なにゆえにかくのごときであったかは、 あるいは不思議としうるくらいであり、学者と作者は必ずしも一致しないとはいいながら、この点賀茂真淵などと比較して、全く違っている

が紹介してあり、では賀茂真淵には秀歌があるかと思って、 岩波書店日本古典文学大系「近世和歌集」を読んでみる。 確かに面白い歌もある。

大魚(おほな)釣るさがみの海の夕なぎに乱れていづる海士小舟(あまをぶね)かも

いにしへのしづはた衣きし世こそおりたちてのみしのばれにけれ

沖つ舟手向けすらしも岩浪のたてるありそにかかるしらゆふ

雲のゐるとほつあふみのあはは山ふるさと人にあはでやまめや

故郷にとまりもはてず天雲の行きかひてのみ世をば経ぬべし

もののふの恨み残れる野辺とへば真葛そよぎて過ぐる秋風

見わたせば天香具山うねび山あらそひたてる春霞かな

むらさきの芽もはるばるといづる日に霞色濃き武蔵野の原

つくば山しづくのつらら今日とけて枯生(かれふ)のすすき春風ぞ吹く

さくら花花見がてらに弓いればともの響きに花ぞ散りける

山ふかみおもひのほかに花をみて心ぞとまるあしがらの関

かげろふのもゆる春日の山桜あるかなきかのかぜにかをれり

しなのぢのおきその山の山ざくらまたも来て見むものならなくに

しかし特に驚いたのは次の二首

うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山さくら花

もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

「うらうら」の方は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の本歌ではないかというくらい似ているし、 「もろこし」の方も「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山」にクリソツ。 もちろん、真淵は宣長の33才の年長であり、宣長が39才のとき(1769)に真淵は亡くなっており、 先に詠んだのは真淵である。 宣長も、わかった上でまねて詠んだのだろう。

世の中によしのの山の花ばかり聞きしに勝るものはありけり

みよしのをわが見に来れば落ちたぎつ瀧のみやこに花散り乱る

これらも真淵が吉野山を詠んだ歌。

宣長は43才のとき(1772)吉野に桜を見に行っている(菅笠日記)。 猛烈に桜の歌を詠み出したのは44才の時からだ。 思うに宣長の山桜好きは真淵から受けた影響(あるいは師・真淵を慕う気持ち)と、実際に吉野山を訪れたことによるのはほぼ間違いないし、 「敷島の」の歌が真淵へのオマージュであることも確かだろうと思う。

真淵の歌を全体としてみれば、宣長と大した違いのない古今調だが、 中にはわざと万葉調に詠んだものもある。 田安宗武ら武士の師となったこともあり、武家の影響もみられる。 一方、宣長は青年期から老年まで歌の傾向はまったく変動がない。 二十台後半に書いた「おしわけをぶね」において彼の思想と学問の方針は完全に完成されているのは見事である。 しかしゆえに十年一日のごとく「ほとんど生長も発展もみられないことも、やがて彼が真の詩人でなかったゆえとすべき」などと言われる始末だ。

「近世和歌集」の真淵の歌は抜粋なのでこれ以上なんとも言えないのだが、 宣長に比べて真淵の歌が優れているとするのは単なるアララギ史観に過ぎないと思う。