不確定申告

tanaka0903

賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、 その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。 古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。 このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、 まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語赤染衛門が初出であるのに、 その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。 確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、 それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、 中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。 賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。 「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。 真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。 国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、 たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。 北畠親房神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、 その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、 やはり賀茂真淵なのかもしれない。 そういうことはうまい人だったのだろう。 宣長は真淵の弟子ということになっているので、 宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、 という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、 宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。