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tanaka0903

傘松道詠

道元歌集

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり

おし鳥や かもめともまた 見へわかぬ 立てる波間に うき沈むかな

水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は わすれざりけり

世の中に まことの人や なかるらむ かぎりも見へぬ 大空の色

春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にのこる うたがひもなし

聞くままに また心なき 身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水

濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる

冬草も 見へぬ雪野の しらざきは おのが姿に 身をかくしけり

峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我より先に 人をわたさむ

山深み 峯にも尾にも こゑたてて けふもくれぬと 日ぐらしぞなく

都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

梓弓 春の嵐に 咲きぬらむ 峯にも尾にも 花匂ひけり

あし引の 山鳥の尾の 長きよの やみぢへだてて くらしけるかな

心とて 人に見すべき 色ぞなき ただ露霜の むすぶのみして

心なき 草木も秋は 凋むなり 目に見たる人 愁ひざらめや

大空に 心の月を ながむるも やみにまよひて 色にめてけり

春風に 我がことの葉の ちりけるを 花の歌とや 人の見るらむ

愚かなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならむ

山のはの ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶほたるかな

花紅葉 冬の白雪 見しことも おもへば悔し 色にめてけり

朝日待つ 草葉の露の ほどなきに いそぎな立ちそ 野辺の秋風

世の中は いかにたとへむ 水鳥の はしふる露に やとる月影

また見むと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする

全体的に普通。 あまり説教臭くない。

最初の歌が一番有名らしいがあまり感心しない。

目には青葉 山郭公 初松魚

を思わせる。 江戸時代の俳人山口素堂の句というが、 道元の影響を受けていたかいなかったか。

「色にめてけり」がよくわからん。 「色に愛でけり」ではあるまい。 「色に見えてけり」ではあるまいか。 俊成の歌に、

たかさごの をのへのさくら みしことも おもへばかなし いろにめてけり

とある。 慈円のようにつまらなくもないが、 俊成や西行にははるかに及ばない。

都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

これが少し面白い。 道元より後の人だが、宗良親王

都にも しぐれやすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ

がある。 道元宗良親王には接点がある。 「将軍放浪記」に書いたとおりだが、 越後、越中と放浪し越前の新田・名越氏らを頼った宗良親王が、 永平寺に立ち寄ったかどうかまではわからぬが、 道元の境遇を自分と重ね合わせて詠んだ歌であっただろうと思う。 も少し調べてみると、道元の三十才年長で藤原範宗という人がいて、

都だに 夜寒になりぬ いかばかり 越の山人 ころもうつらむ

とあるが、道元はこの歌を本歌としたのではなかったか。

夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

これと先の「都には」の二つは、奥越前永平寺の暮らしを偲ばせる秀歌と言ってよい。

北条時頼道元を鎌倉に招いたのだが道元越州に帰ってしまった。 鎌倉時代からの禅宗の寺はたいてい臨済宗で、 曹洞宗の寺は戦国以後のものしかないようだ。