不確定申告

tanaka0903

新葉和歌集

新葉和歌集は准勅撰とあるが、序を読んでみると、

そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、 おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅撰になぞらふべきよしみことのりをかうむりて、老いのさいはひのぞみにこえ、 よろこびのなみだ、袂にあまれり。

とあるように、はじめは宗良親王の私撰集のようなものだったのが、 長慶天皇の意図によって「准勅撰」と位置づけられたことがわかる。

選者である宗良親王後村上天皇の兄にあたるが、「後村上院」と追号で呼ばれているように、 宗良親王より先に死去している。 当時の天皇長慶天皇後村上天皇の子、総覧時1381年には38才でもちろん存命中。 後村上天皇の歌がちょうど100首で形式的には最多。 しかし、宗良親王の歌が99首と、詠み人知らず64首もまた実際は宗良親王の歌なので、 合わせると163首と圧倒的に多くなる。 選者自身の歌が多すぎるし、しかも一番多いというのは勅撰集としてははなはだ不都合であるし、 また採られた人の絶対数が少なく偏りすぎている。 南朝方の人材がどうしても少なかったからだろうし、 かと言って古歌を多く採用して勅撰集の体裁をなんとしてもとろうとはしなかった、 そこでみずから「准」と断ったということだろう。 また後村上天皇の歌の数がきりの良い百首なことから、 自選百首とか秀歌百首とかそんなようなものがあった可能性もあるわな。

編纂の勅命を出した長慶天皇の歌は52首であり、これもわりと多い。 後村上天皇の先代、南朝最初の後醍醐天皇は46首でやはり多い。 新田義貞南朝軍として転戦した宗良親王の兄・尊良親王は44首、 後村上天皇の生母である新待賢門院は20首、 長慶天皇の生母である嘉喜門院は17首、 そのほか、北畠親房は中院入道一品として27首採られている。

岩波文庫版の岩佐正校注「新葉和歌集」の解題で、 後村上天皇も「(二条)為正に師事し給うた」とあるが、 二条為正が後醍醐天皇に近侍していたのは、隠岐に流される前までのことで、 となると1331年以前ということになり、 1328年生まれの後村上天皇が為正に師事したというのはほぼあり得ないのではないか。 1339年11才の時に譲位されるまで、宗良親王北畠親房らと奥州などを転戦しており、 この時期までに和歌を学び詠んだとはとても思えない。 二条為忠(1136年没の藤原為忠という人がいて紛らわしい)という人が、 1351年から1359年まで南朝に出仕しており、新葉集にも42首採られている。 後村上天皇20代半ばの頃なので、もしかすると為忠から歌を学んだのかもしれない。 後村上天皇が盛んに歌を詠んだのもちょうどこの頃にあたるようだ。 千人万首によれば、 後村上天皇が為正に歌を贈ったりしているので、 後村上天皇は為正に師事した、などと言われているのかもしれん。 しかし、それではかなり不自然だ。 定家と実朝の師弟関係のようなものも否定はできないが。

為定と為忠は同じく為世の孫で、いとこどうしにあたる。 為正によって為忠は南朝に一時的に派遣されたのかもしれないし、 もしかすると北朝南朝の間の交渉役だったのかもしれんが、ほんとのことはわからない。

新葉集には「後村上院」とあるが、後村上天皇長慶天皇に譲位して上皇になったという記録はないようだ。 そもそも明治になっても長慶天皇が即位したかどうかというのは謎だったようである。 ともかくもよくわからないことが多いのだが、 しかし新葉集で「後村上院」と呼ばれていることを尊重するとして、 後村上天皇は1368年に死去しており、 その当時長慶天皇は25才だったから、 それよりもう少々前に譲位されてたということもあり得るだろう。 しかしそんな記録もまったく残ってないようだ。

尊良親王:

鳥のねのおどろかさずば夜とともに思ふさまなる夢もみてまし

後村上天皇:

とりのねにおどろかされて暁の寝覚めしづかに世を思ふかな

忘ればや忍ぶも苦しかずかずに思ひ出でてもかへりこぬ世を

聞くたびにおどろかされてねぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな

山人の跡さへ見えずなりにけり木の葉ふりしく谷の下道

花に見し野辺の千種は霜おきておなじ枯れ葉となりにけらしも

長慶天皇:

いかにせむ時雨てわたる冬の日のみじかきこころくもりやすさを

なにとかく濁り行く世ぞ石清水人の国とは神も思はじ

後村上天皇、おなじ心を:

神もまたあはれと思へ石清水木がくれてわがすめる心を

後醍醐天皇:

かきながすわがたまづさの言の葉にあらそふものは涙なりけり

言葉を書き流しつつ涙も流している、という意味だわな。

北畠親房:

いかにせむさらでもかすむ月かげの老いの涙の袖にくもらば

咲きそむる花に知らせじ世の中の人の心のうつりやすさを

良い歌だな。

を山田の苗代水のひきひきに人の心のにごる世ぞ憂し

忘れずばいざ語らはむほととぎす雲井になれし代々のむかしを

山深く結ぶ庵も荒れぬべし身のうきよりは世を嘆くまに

右近大将長親母(誰?):

数ならぬ身をおく山の埋もれ水すむもすまぬも知る人ぞなき

よみひとしらず

かひなしな人にしられぬ塵の身の山としたかくつもるよはひは

宗良親王:

あづまのかたに、ひさしく侍りて、ひたすらもののふの道にのみたづさはりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、 おもひのほかなるやうにおぼえて、よみ侍りし

思ひきや手もふれざりし梓弓起き伏しわが身慣れむものとは

おなじ頃、武蔵国へうちこえて、小手指原といふ所におりゐて、手分などし侍りし時、いさみあるべきよしつはものどもに、 めし仰せ侍りしついでに、思ひつづけ侍りし

君のため世のためなにか惜しからむ捨ててかひある命なりせば

新宣陽門院:

あらましのこころのままにみる夢の覚めてかはらぬうつつともがな

これは良い歌。

新待賢門院:

みよし野は見しにもあらず荒れにけりあだなる花はなほ残れども