不確定申告

tanaka0903

懿子2

角田文衛『待賢門院璋子の生涯』を読んでいて思ったのだが、 白河天皇の最初の后も天皇より11歳も年上で、后が28歳、天皇が17歳。 立太子した年に結婚したそうだ。 これまたかなり無茶な結婚である。

源氏物語』の桐壺など読むとわかるが、皇子は御曹司といって、元服するまでは母親と一緒に住む。 元服したら一家を構えて別居することになるが、 普通皇子には財産がなく家もないから、金持ちの貴族の娘と結婚して、その貴族に家や所領をもらうことになる。 光源氏の最初の妻もそうだったし、 白河天皇も妻の方が年上。 後白河法皇も同様だった可能性が高い。

待賢門院璋子の父は藤原公実で、璋子の腹違いの姉にあたる女子、公子(きみこ)が、藤原経実に嫁いで生んだ子が懿子である。だから、懿子は璋子の姪にあたる。

また、源有仁白河天皇の甥にあたるが、 やはり公実の娘をめとり、子供ができなかったのか、懿子を養子にしている。 懿子が皇子時代の後白河天皇と結婚したとき、懿子は24歳。後白河天皇は13歳だった。 実のいとこどうし(祖父がいずれも公実)の結婚ということになる。 とすると、やはり、後白河天皇はしっかりした後見人(この場合は藤原経実)を持つために、 つまり主に財政的な理由で懿子と結婚した、と考えた方がよかろう。