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tanaka0903

深読みとオカルト

江戸時代には、和歌の家には、堂上と地下という区別が付けられていた。和歌の用語で、堂上とは、宮中に参内する資格を持つ公家がいて、その中で和歌を詠むのを家業としている公家の流派を言う。当時、どの公家がどの家業を受け持つかということが厳しく決められており、それは世襲だった。笛の家、琴の家、琵琶の家、能の家、歌道の家、書道の家と決まっていた。堂上以外の公家や武家や町人はみないっしょくたに地下と呼ばれた。堂上には「古今伝授」という秘伝が代々伝承されており、これの免許皆伝でなくては流派を継げない。

古今伝授とはようするに『古今集』の序文や歌の解釈の秘密を流派ごとに独占的に伝授したものだ。たとえば「 百千鳥ももちどり」という言葉がある。これにはいくつもの解釈があって、普通は「何百何千というさまざまな鳥」、つまり何か特定の鳥を言うのではなく、種々雑多なたくさん群れている鳥のことを言うと考える。しかし、たとえば堂上のある流派はこれを「百匹の千鳥」と解釈する。またその「千鳥」も「シロチドリ」だとか「メダイチドリ」だとか、いわゆる普通のチドリ目チドリ科の千鳥ではなくて、古来は別の種類の鳥を指していたのだ、などと独自の解釈をする。こうして、歌に詠まれるさまざまな言葉を故意に「深読み」し、歌ごとにそれぞれ独特の解釈をして、それが一般人の知るよしもない極意であるとした、いわば「オカルト」「疑似科学」的なものである。契沖や本居宣長などの国学者古文辞学的に解明したように、そのような解釈は藤原定家やまして紀貫之の時代には存在しておらず、戦国の動乱期に捏造されたものであって、なんら根拠はないのである。

これは、歌詠みに与ふる物語の中の、有料でしか読めない部分に書いたことだが、 「古今伝授」というものは江戸時代まで続いた。 その後、世の中では「和歌」を「短歌」と呼び変えるようになり、「古今伝授」などという古めかしいものも絶えてしまったかのように思われている。

しかし、今の文芸評論というものも、意味不明の深読みをありがたがる、 深読みに深読みを重ねて、自分の世界に行ってしまって帰ってこない、 という点においてはオカルトと何ら変わりない、 と思うことがしばしばある。 新古今から室町末期の正徹辺りまでの和歌を論じるときに、その傾向が強い。 というのは、古今までの和歌というのはシンプルでわかりやすかった。 江戸も末期になってくると、香川景樹とか小沢廬庵、良寛のように、わかりやすい歌が現れる。 しかし、新古今以後の勅撰集の和歌は、歌そのものはともかくとして、それに対して語られる歌論がわけわからん。 つまらん歌にくどくどと理屈をこねているだけとしか思えない。 そんな歌よりも面白いものは江戸時代の文人の歌にいくらでもある。

江戸時代の一部の文人たちは、自分たちの時代の、「現代的」な歌を作り出そうと努力した。 一方で、和歌というものがわからなくなった連中は、過去にこそ真の、究極の歌があるのだ、和歌は死んだ、 和歌は公家社会とともに、応仁の乱の劫火に焼かれて死んだ、などと主張して、 ますますわけのわからぬ、ロジックとも信仰告白ともつかぬ理屈をこねくり回すようになった。 現代とまったく同じだ。

だいたい、和歌を鑑賞するのに、その詞書きや本歌や、いわゆる王朝サロン固有の解釈、などというものを知らねば、 本当には味わいがたい、などと言っているのは、「古今伝授」とまったく同じ論法であって、 そんなもので素人をけむにまいておもしろがっているのではないか、としか思えない。

意味のよくわからない歌というのは、何かの歌合の題詠であったり、絵に付ける画賛であったりする。 そういうものは、一応プロがきちんと調べて解説を加えなくてはわからん。 だが、題詠であろうと、画賛であろうと、そのまま鑑賞してみて、それなりにおもしろみのあるものでなければ意味はない。 そのままで面白いものが、その由来を聞いてみてさらにおもしろみが増すとか、理解が深まるとか、そういうものであり、 だから普通に素人は、そのまま読んで面白いものを愛好しておればよろしいのだ。 ただそれだけのことだ。 いらん格付けをされても迷惑だ。

江戸時代の景樹、廬庵、良寛の歌ではなぜいけないのか、「新続古今」とか「新後拾遺」とか、 そんな「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかり」舐めているようなことをして何が楽しいのか、と思ってしまう。

『歌詠みに与ふる物語』を有料にしているのは、歌論など無料にしてもどうせ読んでもらえないと思っているからだ。 読めば十分わかると思うが、読んで分かる人がいるとも思えない。 読んでもらえない、読んでも理解できない評論をわざわざ書く趣味はないのだが。