不確定申告

tanaka0903

枕の山

なんかむしゃくしゃしたので、宣長の「枕の山 桜花三百首」をブログに書き写す。 300首きりではなくて、315首くらいあるようだ。 なんかwordpressではあまり長い文章は書けないようなので、三つに分けた。 1-100101-200200-315

思うに、この枕の山は、宣長の歌集の中では特殊で、あまり二条派らしくないのだ。 本人による跋文にもあるように、

歌のやうなることどもの、おのづからみそ一文字になりて

いたくそぞろきたはぶれたるやうなること、はたをりをり混じれる

のであって、みずからこれらを「戯れ歌」のようなものと言っている。 単なる謙遜で書いているのではない。 詠むべきでないものを詠み、残すべきでないものを残した、と言っているのだと思う。 私には京極派の歌のようにすら見える。 それは、宣長にしてみれば、これまで「風雅」とか「詞の美麗さ」などの理性によって完全に押さえつけてきたものであって、

ゆめかかるさまをまねばむとな思ひかけそ、あなものぐるほし

と、おもしろがる教え子たちを戒めている。 私にはやはりこの枕の山が、宣長の歌集の中では格別に面白いものに思える。 宣長らしくない、というより、宣長が確かに詠んだという証拠がなければ、宣長の歌だとは信じられないような、 そんな歌ばかりなのだ。

さくら花 水の鏡も 我れながら はづかしからぬ かげと見るらむ

春雨に 落つるしづくも なつかしき さくらの花は 濡れてこそ見め

ここらの歌も宣長にしては「情緒的」「現代的」すぎて(たとえば「はづかしからぬ」「ぬれてこそみめ」など)、 かなりきわどいが、しかし宣長が詠んだというならそうかな、と思うけれども、

桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染むる 我が心かな

我が心 休む間もなく 疲れ果て 春は桜の 奴なりけり

桜花 散る間をだにと 思へども 涙にくれて 見えずもあるかな

散る花を 見れば涙に かきくれて 夜か昼間か 夢かうつつか

はつしぐれ 降ればおもほゆ くれなゐの うす花桜 時ならねども

死ぬばかり 思はむ恋も さくらばな 見てはしばしは 忘れもやせむ

弟子たちも、まさか宣長がこんな歌を詠むとは思わなかったと思うんだよな。 その異常さを発見したのも、やはり小林秀雄なんだよな。

さくら花 飽かぬこの世は 隔つとも 咲かば見に来む 天駆けりても

この歌も、ふだんの宣長の死生観から言って、かなり異様だ。 たとえ死んであの世に行ったとしても、飽きぬ桜のあるこの世には、 咲いたと聞いたならば、あの世とこの世が遠く隔たっていたとしても、天を駆けて見に行こう、 などと言っているのだ。 神道ならば人は死ねば黄泉の国に行くだけだ。あるいは浄土思想によるものだろうか。 ともかくも異様な歌だ。

したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

たとえばこの歌を、宣長を良く知ってはいるが、この歌(というか枕の山の存在)をたまたま知らない人に見せて、 宣長の歌だということを当てられる人はいないのではなかろうか。

なんかネット調べたらすでに 枕の山のデジタルデータ があった。 わざわざ手入力した私の立場は(笑)。