不確定申告

tanaka0903

後鳥羽天皇はどうすれば北条氏に勝てたか

後醍醐天皇の例を見るまでもなく、 後鳥羽上皇の時代にはまだ、天皇上皇が軍事力を掌握し動員することは不可能ではなかった。 保元の乱は、崇徳上皇後白河天皇の間の権力闘争だったが、 この時代までは確かに、軍事力を動かす権限は、天皇上皇か或いは親王にあった。 南北朝の頃までは、皇族の宣旨には武士団を動かし、日本全体を戦乱に巻き込む力があった。

実朝が死んで鎌倉幕府は混乱の極みにあった。 ほおっておけば内部崩壊していたかもしれない。 ところが、承久の乱によって、政子と義時と泰時を核として、 鎌倉幕府は結束を固めてしまった。 外向きの戦争によって中は逆に固まったのである。

北条政子は1225年に死んでいる。 承久の乱のわずか4年後だ。 もし後鳥羽上皇が、あと5年待って挙兵していたとしたらどうだろう。 鎌倉幕府は内紛でくだぐだで、日本国内さまざまな矛盾が噴出していただろう。 後鳥羽上皇は、北条氏打倒の機運が高まるまで「善政を敷いて」待っていればそれでよかったのだ。 自分から戦いを挑んだので負けた。 そういうことではないのか。 その余韻が後醍醐天皇の倒幕を成功させたのではないのか。 後鳥羽上皇のもとに大江広元レベルの政治家・戦略家が何人か居ればなお良かっただろう。

だが。 後水尾天皇の時代にはもはや天皇は、なんら軍事力を持ってはいなかった。 なにしろ、関ヶ原の合戦や大阪の陣などは、天皇の宣旨とはなんの関係もないところで起きたのだった。 かりに後水尾天皇が徳川追討の宣旨を出しても、まったく何の効力もなかっただろう。