不確定申告

tanaka0903

宣長と山陽

宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。 宣長頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。 ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。

宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、 当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。 武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。 そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。 ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、 エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、 単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。 師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。 敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、 現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。 今でも理解されてない。 こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。

江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。 しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、 自ら進んでその役を買って出たようにも見える。 山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、 幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。