不確定申告

tanaka0903

明治天皇御製集

明治天皇御製だが、93032首という全集は皇室に153冊の写本として残されているという。 そのうち明治天皇御製集として大正8年から宮内省の事業として編集したものが1678首を納めているが、 J-Textsにある明治天皇御集大正11年に文部省が発行しており、 おそらく同一のものと考えられる。 つまり、宮内省が編集して文部大臣鎌田栄吉の名で発刊したということだろう。

その後、昭和35年から明治神宮がより多くの歌を公にしたいというので、 入江相政佐佐木信綱らが委員となって、「新輯明治天皇御集」というものが昭和39年に出た。 これには8936首が納められている。 現在、平成2年刊「類纂新輯明治天皇御集」というものが定価5250円で、明治神宮で買えるというのだが、はてどこで買えばよかろうか。 もしかすると宝物殿の中で売っていたかもしれない。 まあ問い合わせてみるか。 図書館にも所蔵しているところがある。 しかし、これが最大の収録であり、それ以外の9万首近くの歌というのは我々がいくら望んでも見られそうもないということだな。

さらに新輯御集から1404首を選び出して明治神宮編角川文庫版「新抄明治天皇御集昭憲皇太后御集」が昭和42年に出た。 私が大学受験の時に明治神宮で買ったものはこれだったと思う。 さらに平成12年に注釈に多少補筆した版が出ており、 現在明治神宮の文化館(土産物売り場)で表紙カバーに「非売品」と書かれているが500円で買うことができる。

他にも昭和15年明治神宮社務所から「明治天皇御集」というものが出ているようだ。

で、J-Textsにある大正11年版御集と、平成12年版御集だが、 収録されている歌にかなり違いがある。 たとえば大正11年版には武蔵野を詠んだ歌が入ってない。 平成12年版は日常の素朴な歌をより多く取り入れる構成になっているのかもしれない。

キング付録「明治大帝」という昭和2年に出た本を見ると、

御製編纂以前、新聞などで公表されたのを拝誦いたすと、ほとんどみな、主観的な、教訓的な御製ばかりであったので、御製は全部かようなものかと存じておったところが、編纂に従事してみると、決してそうではない。

また

明治天皇の御製が新聞に洩れ始めたのは、明治三十七八年の戦役の頃ではなかったろうか。少なくとも、この頃から新聞にあらわれるのがにわかに多くなったように思う。 これは当時の御歌所長高崎正風男爵が洩らされたように承っておる。

元来、大帝には、御製の世に洩れるのをお好み遊ばされなかった由であるが、

大帝は、御製の頻々として新聞に出るのを苦々しく思し召され、高崎男爵をお召しになって、ご注意があった。

これに対して正風は

御製を世にお洩らし申し上げるということは、世道人心の上に、誠に結構なことと存じて、畏れながら正風取りはからったことでございます。 もしこれについてお咎めを蒙るようなことあらば、正風、切腹して御申し訳をいたします。

と答えたそうだ。

高崎正風「歌ものがたり」にある話で、 明治10年西南戦争が起こり、

思いの外西南事件が長くかかって、しばらく京都にご滞在あそばされたが、 ようやく結末がついたので御還幸になることになった。 今度は路を海におとりになることになったので、自分も供奉いたして、神戸から舟に乗った。

しかるに遠州灘ご通行の折り、富士がよく晴れておったのをご覧あそばされて、たちまち御製三首あそばされて、 それを御手帳にお書きあそばされて、お裂きなされて、私にお見せになって、 「高崎歌が出来たがどうだ」と仰せられた。

で、この時の歌というのがおそらくは

あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山 「西京よりかへりける船の中にて」

であると思われる。 これに対して正風は

その御製は覚えておらぬが、何でも故郷が近くなったと見えて、富士が見えるようになったのがまことにうれしいというような御製であって、 つまり久しく西南事件のために京都に御滞留あらせられたことであるから、早く故郷に帰りたい、と思うのは人情誰も同じことであるが、 その御実情をそのまま御歌いになったのであるから、誠にこの御製は結構に伺います

と答えたそうだ。

正風が宮中の御歌掛(後の御歌所長)になったのは明治9年であるから、 上記エピソードはその後のことだろうが、 明治天皇の御製が毎年きちんとした形で残るようになったのが明治12年からだから、 おそらく正風の助言や尽力があったのだろう。 実際、

当時宮中の御歌はいわゆる堂上風であまりにもお歯黒臭かったので、 翁はその旧弊を一洗して、かねて私淑していた香川景樹風の清新にして格調高い歌にしたい、 というようなことを申し上げたところ、非常に御意に適い、それが動機となって、明治十二年頃から御製の拝見を仰せ付けられるようになったと承っている。

またその際に

御歌を御好みあそばすは誠に結構に存じますが、それがために御政治にお障りあそばすようなことがあれば、 畏れながらひらにお許しを願います

と条件をつけたそうだ。

正岡子規の「十たび歌よみに与ふる書」(明治31年)で批判されている御歌所長というのも、具体的には正風のことだと思われる。

田舎の者などは御歌所といへばえらい歌人の集まり、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従ってその人の歌と聞けば、 読まぬ内からはや善き者と定めをるなどありうちの事にて、生も昔はその仲間の一人に候ひき。 今より追想すれば赤面するほどの事に候。 御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。 今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間にこれあるべく候。

子規は明治35年に死んでいるので、 正風が37年頃から新聞に洩らしたというような歌も、ほとんど目にしていないものと思われる。 子規が仮に日露戦争の後まで生きていたら、 御製についてなんと言っただろうか。 たしかに気にはなる。