不確定申告

tanaka0903

俊寛

平家物語では、巻第二「大納言死去」「康頼祝詞」から巻第三「赦文」「足摺」「有王」「僧都死去」まで、延々と、 ずいぶんな分量を費やして、俊寛が流されて死ぬまでの話が記述されている。 また、有王が俊寛を訪ねたのは、清盛が死ぬより前、平家全盛の時代で、 流刑になった三人のうち二人だけが恩赦で帰ったすぐ後である。 俊寛の家族は妻と娘、さらに若君が京都に残されていたが、若君に続いて妻がなくなり、 娘の手紙を有王が髪の毛の中に隠して俊寛にもたらしたことなっている。 そして俊寛は食事をとらずに餓死する。

倉田百三の話はだいぶオリジナルに似ているが俊寛の家族はみな死に絶えたと有王から聞き、 俊寛自身は岩に頭をぶつけて自殺する。

菊池寛の話では、平家が滅んだ後に有王が訪ねてくると、俊寛は土地の女性と結婚し子供ももうけており、 釣りや農耕などして自給自足、楽しく暮らしている。 平家が滅んだと聞いても都に戻る気すらない。 有王には、「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。・・・俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」 と言って分かれる。

芥川龍之介の話では、有王が訪れる時期は清盛が生きている間なのだが、 俊寛はすでに現地で妻がおり、なんとなしに隠遁生活を送っており、四方山話をしたあと 「見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を」との歌を残して有王と分かれることになっている。 この辞世の歌は平家物語には見えないが源平盛衰記では俊寛が一人島に残されたときに詠んだことになっており、 有王に残したとはかかれてない。

ふと、芥川龍之介はなんでこんな退屈な内容の「俊寛」をわざわざもう一つ付け足さなくてはならなかったのか、 と思う。 わざわざ倉田や菊池の前作を参照してまで、何か新たな解釈がしたかったのだろうが、読んでみて、 いったいどこで何を言いたかったのか、よくわからんのである。