不確定申告

tanaka0903

わたしたちが孤児だったころ

カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』をやっと、途中斜め読みしたが、一応読み終えた。

最初は、日中戦争のことが書きたいのかなと思った。アヘン戦争以来の、イギリスによる中国支配のこととか、日本との戦争のことが書きたいのかなと。 でも何か主要なテーマが一つあってそのことを中心にいろんなエピソードが絡み合っているのかとおもったが、 そうともいえない。 中心的な主題を持つことを拒絶しているような感じがある。これがポストモダンとかポスト構造主義というものだろうか? さまざまなエピソードがただたんに相互に絡まり合って長編小説という体裁を作り出している。 だから、イシグロが構築した世界の中をだらだらと散歩させられているような気分になり、そういう読書体験をしたい人にはちょうどよいのだろうし、そういう読者が英語圏には、あるいはイギリスという国には、ある一定数いるのだろうと思われるし、そういう人むけに書かれたものなのだろうと、推測する。

面白いと言えば面白い。そう、わざと、最後まで、はしょらず読み進めさせるのに必要な最低限の面白さを小出しにするようにして、話は進んでいく。 筆力を持った作家にしかできないじらしのテクニック、と言えば言えるだろう。 意外なオチというものは用意してあるのだが、いわゆるミステリー小説へのアンチテーゼのような形で、読者の目の前に持ち上げておいてたたき落としているような不愉快な感じすらある。 クリストファーとサラの恋愛物かと思わせておいて全然そうはならない。 たとえばロンドンの二階建てバスに二人で乗る話。それはただ記憶の断片として配置してあるだけだ。石庭の石のように。 クリストファーとアキラの友情ものかと思わせておいてそうもならない。 アキラの家の使用人が人間や動物の手首から蜘蛛を作っているというアキラの思い込み。なるほど、アキラという子供の描写にはちょうどよいのかもしれないが、本筋とは何の関係もない。 読者がこういうものを読みたいと思っている、その期待をすべて裏切っているところがおもしろがられているのだろうか。 すでに巨匠となった作者のちょっとしたいたずらのようなものだろうか。 これを読んでなんだかはぐらかされた気分になる人は多いのではないか。だがそうは思わず純粋に楽しめる人もいるのだろう。

思うに、今の時代は、これはラノベ、これはミステリー、これはホラー、これは時代小説、などと、ジャンルが細分化されていて、それぞれにファンがいて、他のジャンルの小説は普通は読まない。 そしてそのレビューというのも、ミステリーとしてよくできてるとかミステリーのていをなしてないとか、ミステリーとホラーがまぜこぜになっているとか、そういうものが多い。 ラノベだとこれは異世界転生物とハーレムものを合わせたものですね、なんて言っている。そういう読み方して楽しいのか?と思う。 小説をそういうふうに消費するのはつまらんからジャンルをとっぱらった自由な新しい小説を読んでみたいとなると、カズオ・イシグロのようなものになるのだろう。 しかし私には、ジャンルを否定しただけで、なんだか何でもない、小説ですらない何かを読まされているような気がしてくる。 私の場合、やはりジャンルにはこだわりたくないのだ。読者に自分の小説をカテゴライズされるのはいやだ。しかし小説を書くのであればきっちりテーマがあってちゃんと起承転結があるものを書きたい。それで面白いと思われたいのだ。