『宣長さん』中根道幸
小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。
子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。 どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。 宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、 小林秀雄について言及している点や、 この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、 子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。
村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。 宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。 加納諸平という歌人を教えてもらった。
吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。 しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。
その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。 どれもよくわからないことが書いてある。 たぶん著者がよくわかってないのだろう。
子安氏が主張しているように、 小林秀雄著『本居宣長』と 中根道幸著『宣長さん』 を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。 『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、 著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、 これはすごい本だ。 この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。 早く出会えてよかった。
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結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。
こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。 宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。
中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。 そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。 宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。 宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。 しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、
多く二条派の目で拾われた定家なのである。
私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。 宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、 浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。 宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。 途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。 真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。 宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、 スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。 だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。
宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。 その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、 その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。 『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。 まさに私が読みたい本だった。 宣長が若い頃に誰と会ったか。 どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。 結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、 宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。 この「松坂文芸」は、 京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。 その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。
本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。 最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。 「養子留学」であったというのだ。
なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。
養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。
学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ
実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。 彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。
今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。
御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、 宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。 つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。 そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、 今井田家での学問に限界を見たからだろう。
宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。 そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。 この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。 「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、 宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。 定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、 具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。 特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。 二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。 二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。
二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。 京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。 この宣長の主張には意味が無い。 二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。 実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。 わかっているようでわかってない人がほとんどだ。 中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。
宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。 幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。 たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。 そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。
いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや
憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても
いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を
これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。
正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。 しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。 たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。 正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。
宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。 古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。 しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。 明らかに定家そのものを見ているのではない。 それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。 しかしそれは説明の付かないことではない。 宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。 しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。 若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。 また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、 古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。
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宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、 仏式と神式の墓を別々に作ったこと、 『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、 これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。
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一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。
宣長の初めての歌についての講評。 これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。 他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。 まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。 上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。 つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。 こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。 宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。 本居宣長の漢詩についても、ほぼ同様のことが言える。