不確定申告

tanaka0903

ふと「エウメネス」の最初の頃のバージョンを読み返してみた。 それはこんな具合に終わっている。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

私は驚嘆した。王はまさしく世界の王である。この世に人類が生まれて何千年、何万年が経っただろうか。これから何万人、何百万人の王が地上に生まれるだろうか。しかし、私は彼以上に偉大な王はかつても、これからもいないと確信する。

そんな惚けた私の顔を見て、私の心を見透かしたのか、王は照れくさそうに言った。

エウメネスよ。おまえは私がやることなすことを一つ漏らさず後世に伝えたいと言っていたから、今私が兵士らの前でやったことも、一つの美談として書き残すに違いない。

よろしい。私が死ぬまでは真実を語ってはならない。しかし私が死んだら、ありのままにこう記してほしい。

おまえは、私があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかし違うのだ。私は用心していたのだ。私は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を横から手を伸ばして食い、兵士らが飲んでいる水を分けてもらって飲む。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。

だが、兵が王に献上してくれた水をただ捨てたのでは、兵は腹を立て、私が兵を信頼しないように、兵も私を信頼しなくなってしまうだろう。だから私は少し演出を加えて、私がたぐいまれな克己心によって、水を飲むことを拒否したように思わせたのである。」

わかりやすい。 エウメネスは明確に王の書記官として、史官として現れていて、 王がときおりエウメネスに自分の真情を語って聞かせるのは、 エウメネスに託して後世に伝えるためだ、と書かれている。 まだアマストリナもラオクスナカもここには現れない。

さらに古いバージョンではタイトルは「メガス・バスィレウス」となっており、

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海アラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

といきなり沙漠の話から始まり、

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

と言わせている。 これまたわかりやすい。 そして最後にエウメネスに「バスィレウス(王よ)!」と叫ばせてしめくくっている。

だが私はその後エウメネスに絡ませるため、また王が兜の水を捨てるシーンをよりドラマティックに演出するため、アマストリナというヒロインを登場させ、 さらに男女関係を複雑にするためにアパマまで追加して、 ガンダーラから話を始めることにし、スーサ合同結婚式を後書き代わりに付けたした。 またエウメネスの主観視点(一人称)の話にした。 「バスィレウス(王よ)!」というしめの台詞も省略し、

「私が今言ったことはアマストリナには秘密だ。他の誰にも秘密だ。なぜだかふいに、おまえにだけは打ち明けてみたくなったのだ、エウメネスよ。」

と、王はただの気まぐれでエウメネスを自分の独り言の聞き役にしたことにしてしまった。 わかりにくい。 なぜこの話はここでいきなり終わっているんだ?と不思議に思うだろう。 読者はこれはエウメネスの物語だと思うだろう。 よく読めばそうではないことがわかるが、 読まない人はエウメネスが主人公でアマストリナがヒロインのはずだが、 なんかおかしな話だなと思うだろう。

今から思えば私はアマストリナのキャラを立てすぎた。 しかもエウメネスは他のマンガの主人公になっていて、やはり余計にキャラが立ちすぎた。 ほとんどの読者はその先入観なしでこの小説を読まない。 本来、王の観察者にして読者の代理人にしかすぎないキャラが立ちすぎて、 ほんとの主人公みたいになってしまった。 書いてるうちに脇役が勝手に暴走し始めるのは私の小説ではよくある。 いつの間にかメインのキャラの一人になってしまうことがあるが、 それはそれで面白いのでほうってある。

もともとこの小説は、 アレクサンドロス大王が主人公の話であった。 アレクサンドロスというよりは、アノニマスな「王」について語る話だった。 歴史上もっとも王らしい王、典型的な王、 誰もが知っている有名でわかりやすい王という意味でアレクサンドロスを選んだが、 しかし、作中ではずっと「王」で通した。 「王とは何か」ということを読者に問う作品だからなのだ。

「王とは何か」とは私の中では「天皇とは何か」という問題であって、 それはより根源的には「武士とは何か」という問題である。 武士と天皇は相対的なものである。 その二つはもとは「王」という一つのものであった。 私はずっとこの問題について考えてきた。 私の歴史小説は要するにその問いに対する解答を記述しているものだ。

もしエウメネスが「王よ!」と叫ぶ台詞であの小説をしめくくっていれば、 或いは「メガス・バスィレウス」というタイトルであれば、 私の意図はもっとわかりやすかっただろう。 しかし私は読者をもっと作中に没入させ、自分の問題として考えさせたかった。 FPS (first person shooter) の手法を借りて。 つまり作者はどうしても神の視点から物語を作ってしまう。 神がいろいろ親切にヒントを与えてしまう。 それは避けたい。 プレイヤーはノーヒントでいきなり現実の中に投げ込まれる。 そして自分で答えを見つける。 そういう小説にしたかったのだ。 そう、ハーフライフ2のように。

もし王がそういうふうに自分だけに真情を吐露したときに、 自分ならそれに対してどう思うか。 怒るかもしれない。 あきれるかもしれない。 がっかりするかもしれない。 余計に王を好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。 だが、エウメネスに「王よ!」と叫ばせてしまうと、 その答えを作者が提示してしまうことなる。 それは避けた。 読者に私とは違う解釈をする余地を残したつもりだった。

だが、そこまでたどり着けた読者がいただろうか。 そう、私自身、当初の意図がわからなくなりかけている。 まして私以外の人が正確に読み解くことができようか。

エウドキアや江の島合戦はもっと読者に親切に書いてある。 私が読者というものを以前より信頼しなくなったからでもある。

もしおまえが苦痛に快楽を覚え、快楽に苦痛を感じるようになれば、おまえもまた王の仲間入りをしたのである。

王は、戦場にいて、勝ち続けているうちだけが安全なのである。

王は、自ら偶像を演じねばならぬ。

だが一方ではこんな具合に「王とは何か」という答えを王に言わせてしまったりしているから、 難易度はいくぶんか下がっているはずだ。 たぶんこれも読者にはわかりにくいと思う。 私はバブルの絶頂期に隠者のような仕事を選んだ。 世の中が安定を求めるようになると転職した。 他人と逆のことをやるのが正しいと信じているところがある。 それが「王」に対するシンパシーになっているのだが、 多くの読者には共感できないだろう。 こんなふうに種明かししない限りは。

なぜこの話はこんな中途半端な終わりをしているんだろう。 作者の意図は何か。 作者はたぶん読者を突き放して、ラストは自分で考えよと言っているらしいな。 読者はそこまではたして気づくものだろうか。 私自身久しぶりに読むとそこがとても心許ない。

ジグソーパズルは途中まで組み立てれば何の絵が描かれているかはわかる。 残りは読者の想像に任せよう、自分と同じように補ってくれるかな。 それとも全然違う絵で補間してしまうだろうか。 そんな楽しみはある。 「川越素描」も長編なのに「素描」と言っているのは、 書かれていないことの方がずっと多いからだ。 ある意味私の作品はすべて素描だ。 細密画のようにすべてを緻密に描きこんでいるわけでない。