不確定申告

tanaka0903

後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、 勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、 たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?

それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。

ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。