不確定申告

tanaka0903

京極黄門

宝暦5年8月16日(『鈴屋百首歌』第1冊奥書)に「京極黄門」と見える。 藤原定家のことだが、どちらかといえば、漢学的、儒学的な呼び名のように思われる。 この頃はまだ漢学と国学のどちらという立場でもなかったか。

つまり26才の宣長はただひたすらに歌が好きな人ではなく、漢詩も作れば、和歌も詠む。 そういう人だったとすれば、 芦分け小舟を書いたのは、これよりあとだったことになる。

宝暦6年(1756)1月5日以降『在京日記』が和文体に変わった

これも傍証になろうか。

契沖に出会ったタイミングはいつだろうか。

黄門は中納言唐名水戸光圀の号ではない。

宣長は契沖のように僧侶になりたかったのかもしれんね。 もし宣長が貧乏だったら迷わずそうしたのだろうが、 実家が金持ちだったから、当時としては比較的自由業に近い医者の道を選んだ。