不確定申告

tanaka0903

鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。 未だに参拝客は多い。 車が多く道が狭い。 要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、 まずは宝戒寺に行く。 拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。 ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、 北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺東勝寺で討ち死にし、 小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。 これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。 この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、 今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。 庭にリスが居る。 あと、ヤブツバキ東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。 今度の機会に訪れよう。 幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。 ボタンといえば花札では六月だが、 一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。 数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。 源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、 本宮を参拝。

鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、 静御前の「静」にかけてある。 まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。 葛飾北斎筆「酔余美人図」 (つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、 司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。 ここにも白旗神社がある。 ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。 墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、 大江広元島津忠久毛利季光の墓が三つ並んである。 も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。 毛利季光大江広元の四男で毛利氏の祖、 島津忠久は島津氏の祖。 この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、 何か意味ありげはある。 追記

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、 ごく普通の天神さん。 大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社鎌倉宮がある。 後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、 いわゆる建武中興十五社の一つとして一括りにされているが、 創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、 明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。 そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。 本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。 よくわからないが中はかなり広い。 しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。 いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、 それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。 先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。 普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。 太平記の記述では土蔵となっているから、 実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、 しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。 また、明治天皇行幸したときの行在所が今は宝物殿となっていて、 かなり手狭な建物だが、 中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、 東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、 山本五十六「至誠奉公」の額、 乃木希典「忠孝」の額、 それから伊藤博文勝海舟山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、 かなり無造作に展示されているのだが、 これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。 私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、 なんというおそるべき宝物群であろうか。 思うに、明治神宮東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、 この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。 そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、 なんちゅうかあまりにももったいない。 こんだけのコンテンツがありながら、 あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、 本殿向かって右手に祭られている。 宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。 つまり、 「身代わり様」と呼ばれ、 「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。 また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、 この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。 吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、 村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。 これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、 なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。 南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。 写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。 親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、 また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、 積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。 鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子源実朝の墓に向かう。 ここもまた岩窟。 他の墓同様にきわめてささやかなものだ。 ここは寿福寺という寺の裏の墓地。 寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。 墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。 鳴き声はかわいくない。

もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山

ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、 あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。 あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。 参道がやはり岩窟。 岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。 元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、 実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。 鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、 頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。 こんな華美ではなかっただろう。 鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、 あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。