不確定申告

tanaka0903

映画と原作

もともとの出典はわからぬが、ウィキペディア宮崎駿」には、

この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。が、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。

と書かれている。 原作がなければ映画は作れない、という通念が存在しているのかどうか、ということが長いこと気にかかっていた。 だもんだから、「川越素描」の中では、

私ね、以前に、加奈子にノベルゲーの台本を書いてみてはどうかって、アドバイスされたことがあったのだけど、そのとき気づいたの。私が書きたいのは台本ではなくて、小説なんだってことが。それもラノベとかじゃあなくて、ばりばりの長編小説で、登場人物が百人くらい出てきて、主人公もどんどん代わっていくようなもの。それで、まず私は原作を小説で書くわ。それを台本に落としていくの。たとえば、黒澤明監督の映画にも、山本周五郎の原作があるようなものよ。私は手加減なしに小説を書くから、それを加奈子か一成に、台本に翻案するのを手伝ってもらいたいのよ。そういう条件で良ければ、引き受けるわ。

俺はそれで、全然かまわんよ。オペラの脚色ってのは、つまり、原作をばっさばっさと切り取って、歌劇にできる部分だけを残す作業さ。難しく考えることはない。大丈夫、俺が手伝う。なんとかなるよ。それでいいかい。

などと登場人物に語らせている。 「ナウシカ」は明らかに、原作などなくてもアニメは作れるという反例である(むしろマンガの後半はアニメから派生した外伝のようにも見える)。 宮崎駿はどちらかと言えば原作を無視して勝手に話を作ってしまう人である。 ルパンの仕事をたのまれたからカリオストロを作ったのに過ぎない。 「風たちぬ」なんかもかなりひどい。 宮崎駿は原作不要論者にとっての良い見本だ。

プロデューサーという人は人とコストの計算をする人だから、 アニメーターの宮崎駿という人が、 自分の才能だけを頼りとして、損得も役割分担も考えずに作品を作られては迷惑なのだろう。 たとえて言えばチャイコフスキーのピアノコンチェルト第一番を、 楽団も指揮者も無視して、作曲家の意図も無視して、 ピアニストの独断で即興演奏するみたいなものだわな、宮崎駿の場合。 プロデューサーはモノづくりよりは金儲けを本業とする。 その一線はどうしてもある。そこがクリエイターやディレクターとは違う。

プロデューサーとかディレクターとかクリエイターとかをみんな一人の万能の人間がやったほうが良い作品ができるかといわれれば理想的にはそうだろう。 少なくとも普通のコスト管理された量産型の作品ではなく、 稀に見る天才的な作品の場合には。

ただまあ私は原作はあったほうがよいと思う。 きちんとした原作を書くこと自体そんなに簡単なことはではないし、 書いていて面白いことだ。 ゴッドファーザーを見ていても二時間か三時間の映像作品ですべてを描き切ることは不可能だ、 コッポラという天才をもってしても不可能なのだから。 コッポラは明らかにすべてを映像という媒体で説明することをあきらめている。 ストーリーや人間関係を映像で説明しながら、見ているものにだれが黒幕かを推理させようとした形跡はある。 だが1作目ではヴィトに黒幕はバルジーニであるとネタばらしさせているし、 2作目でもやはりあまり説明もなしにマイケルに黒幕はロスであると語らせている。 ミステリー作品ならこんなふうにあっさりネタばらしはしない。 作品の途中でネタばらしするとしたらそれは普通はひっかけであって本当のオチは作品の最後までひっぱるものだ(ただし、見ている者は、マイケルのその判断が正しいのかどうか、あるいは策略としてそう言っているだけなのか、半信半疑のまましばらくは見させられる)。 1作目はまだ丁寧に映像で話を説明しようとしているのだが、 2作目だと、そうできなくはなかったに違いないのにやってない。 プロットだけはあって映像化されなかった部分がある。 さらに明らかに二つの作品に分けたほうがわかりやすいのに、 二つのストーリーを交錯させてわけをわかりにくくしている。 それがコッポラ独特の演出だというが、それはかいかぶりではないか。 たぶんあまりにもわかりにくい話なのでよけいにわかりにくくしてごまかしたのだろうと思う。

で、普通の人は映画なんてのは映画館で一度しか見ないのであり、 映画を小説のように何度も何度も繰り返して見てストーリーやら演出の意図やらを理解しようとする人はいない。 今ならいても昔はそんな鑑賞の仕方ができなかった。 アカデミー賞に選ばれたのもストーリーが面白いというよりはやはり映像や演出の面白さだろう。 そういう意味では映画は明らかに「総合芸術」ではない。 単なる「映像芸術」だ。 理屈抜きに面白いのが映画ということだが、 映像で語りきれなかった部分はやはり原作が担保しなくてはならない。 そのための原作なのではなかろうか。

思えば和歌も似たようなものかもしれない。 言いたいことはあるが、それを短い定型詩であらわさねばならない。 長い詞書をつけたり定型を外れたり、言わんとすることは言わずただ口調だけ整えたりそれらしい言葉だけ並べたり。 だが良い歌はそういう窮屈な制約の中で言いたいことを言い尽くせているものなのだ。 そこをすっ飛ばしていては意味がないと思う。

菜摘としても、原作者の誇りがある。原作や台本をどうアレンジされようが、自分とは関係ない。というより、台本や原作に忠実に脚色・演出することなど不可能だ。それはそれで、勝手にすればよい。原作者が口出しすべきことでもない。原作に対して複数のさまざまな解釈があってよい。

同じ「川越素描」では主人公の菜摘にこんなことも言わせているのだが、 ま、これは一種のあきらめでもある。 原作者はどうせ原作でしか自分のアイデンティティを保てないのだから。 というか作品のつまらなさを原作のせいにされてもこまる。 原作として選ばれるのは名誉ではあるが、 原作は無視してもらってもかまわないからちゃんと面白いもの作れよくらいしか、 期待するところはない。

そういえば、 ゲームやアニメから派生したノベライズという小説もあるわな。 ノベライズはキャラクターグッズみたいなものだからな。 ノベライズは最悪。 売れないライターにはそんな仕事が回ってくるのだろうか。 あるいはクリエイターが箔付けするために小説もどきをゴーストライターに頼んで出すのだろうか。 気持ち悪い。