新井白石
少しヒマがあったので、「折りたく柴の記」を最初から順に読んでみたのだが、 Wikipedia 「新井白石」の記事に
と書いてあるのだが、白石本人は父から聞いてなくて知らないという。 どうやって調べたのだろう。単なる伝説のたぐいか。
白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。
「火の子」と呼ばれたのは火事の時に生まれた子だから、と「折りたく柴の記」には書いてあるのだが。 それから、三歳で儒学の書(?)をそっくり書写した、などとはどこにも書いてないし、そんなことは不可能だろう。 ただ、「上野物語」という仮名草子を、紙を草紙の上に重ねて、写し取ったもののうち、文字になっているものが十のうち一、二あった。 と書いてある。もしかしてそのことを言っているのか。
どうもこの「新井白石」の記事はおかしくないか。
利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。
白石の父は、利直から直樹(頼直)に代替わりするときに病気になり、 息子の白石が仕事を継ぐ前に隠居した。 普通武士はそんなことはしない。理由はよくわからない。 何かはばかることがあったのかもしれない。 珍しいことだが、直樹は父利直は不仲だったために、 利直に目をかけられていた白石の父は数年後禄を奪われ、 白石は出仕することを禁じられ、土屋家を追われた。 と、「折りたくしばの記」には書いてあるが、ずいぶんニュアンスが違うのではないか。
改易したらすぐに自由の身になったのではない。 直樹の子が家督相続して、その子に白石が逵直(みちなお)という名前を選んでやった。 そのことによって白石は再び他家に仕官することを許された。
独学で儒学を学び続けた。
どうも独学が好きで好きこのんで師を持たなかったような印象に書いてある。 たぶん戦前の修身の教育でも同じニュアンスなのだろう。 しかし 「折りたく柴の記」には
しかるべき師といふものもありなむには、かく書に拙き身にもあらじ。
したがひ学ぶ所もありなば、文学のこともすこしく進むこともありなまし。
をしへみちびく人もありなむには、今の我にもあらじ。
学問の道において不幸なることのみ多かりし事、我にしくものもあるべからず。
などとあって、師をもてれば持ちたかったし、もしもてていれば今よりずっと学問がはかどったに違いない、などと書いている。
ところで、終戦の詔勅に 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」 というフレーズがあるのだが、「折りたく柴の記」に 「堪えがたき事をも堪え、忍びがたき事をも忍び」というくだりがあって、 はて何か漢籍に出典でもあるのかと思ったが、 それらしきものとしてはおそらく何かの仏典に由来する 「難忍能忍、難行能行」(忍びがたきをよく忍び、行いがたきことをよく行う)というものではなかろうかと思う。 ともかく昭和の人たちは白石の「折りたく柴の記」を熟知していたろうから、 玉音放送にも採った、というのは間違いなかろうと思う。
「折りたく柴の記」は比較的ひらがなの多い和文で書かれていることを思えば、 自分の子孫が(つまり漢学の素養を身につけた男子だけでなく、女子などが)読めるようにと書いたものだろう。 もし儒学者らに向けて書いたなら、読史余論のような文体になったことだろう。 内容も、後半くどくど政治のことを書いているが、普通に読めば新井家の由来、昔話と読めなくもない。