プロイセン王国
プロイセン。 プロイセンの領土拡張2。 プロイセンの領土拡張3。 ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国。 ライン川。
昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。 東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。 プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、 プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。
神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、 ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。 ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、 ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、 フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。 プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。 一躍大国となる。 1862年にはビスマルクが宰相となる。 イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。 イタリアに続けという気持ちはあっただろう。
1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。 つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。 ビスマルクすげえ。