不確定申告

tanaka0903

ブログ

自分のレンタルサーバーでwordpressで日記書くのを諦めて、そのあと、カクヨムとかnoteとかも使ってみたが、ブログのようにアーカイブをただちに参照できるようにはできてなくて、つまり、何年にもわたって書きためるには向いてない。

で、自前のwordpressを持たないと決めたら残る選択肢はハテナブログくらいしかない。

ハテナブログはwordpressのすべての機能を使えるわけではない。でも、勝手に関連する過去記事のリンクを表示してくれるのはとてもよい。まあこれもおそらくなんかのプラグインを入れてるだけなんだろうけど。しかしそういうことを自前のwordpressでやろうとするとめちゃくちゃ重くなったりメンテがたいへんだったりするから、やはり便利といえば便利だ。

なので、あちこち書き散らすのでなくブログに回帰してくるかもしれん。

つまり、ブログはtwitterみたいな即時的な交流は(少なくとも昔ほかにほとんどSNSのたぐいがなかったころのような)期待できないがこつこつ書きためてアーカイブするには良い、ということだと思う。

エウメネス再考

10年以上続けてみないと見えてこないものはあるわけで。2013年にkdpで『エウメネス』を出して、以来、なぜか私が書いたものの中で『エウメネス』だけが読まれ続けていて、なぜかなと思って調べてみると、エウメネスを主人公とする漫画『ヒストリエ』があり、ああ、『ヒストリエ』を読んだ人がついでに私の小説にも興味を示して読んでくれているのだろう、とそのときは納得していた。

そのままずっとそれで納得してたのだが、最近は、必ずしもそれだけじゃないんじゃないかと思い始めた。

私が書いたもので比較的継続して読まれているものには、カクヨムで出している『伊勢物語』がある。この『伊勢物語』と『エウメネス』に共通しているのはどちらも娯楽ものというよりは教養ものという性質の読み物であるということ、学習参考書的な性質を持っているということだと思う。

思うに、『ヒストリエ』を読んでアレクサンドロス大王に初めて興味を持った、という人はおおぜいいるに違いないが、そうでなくとも、アレクサンドロス大王に興味を持つ人はいるに違いない。世界史を学んでいて、『ヒストリエ』を参考にしようとしても、『ヒストリエ』は時代考証的にはかなり怪しいので、楽しみながら読めてもう少し役に立つ読み物はないかと探すと『エウメネス』にたどり着くのではないか。

あとはやはり、アマゾンでポジティブなレビューがついているのはやはり大きく、ときどきランキングで浮上して目に付くというのもかなり効いていると思う。

古代ギリシャものというのは古代ローマものと同じくらいに日本人には人気が高い。ギリシャものを読みあさっていくと、アレクサンドロス大王についてしっかり書いたものはそれほど多くはない。塩野七生も『ローマ人の物語』の二番煎じで『ギリシア人の物語』というものを書いた(書かされた)が、このできがあまり芳しくない。いろんな意味で不満が多い。少なくとも私としては。

これが英語圏の書籍であればアレクサンドロス大王について書いた本はゴマンとあって無名の作家が書いても埋もれてしまうのかもしれんが、日本語だとあまりない。あったとしても、断片的で、全体をざっと俯瞰し網羅するのに向いてなかったりする。あるいは逆に、概要だけで詳細がつかめないとか。

日本語でギリシャものといえば、神話とかアテナイとかあのへんのやつばっかりで、アレクサンドロス大王とかマケドニアあたりは案外手薄だ。

今はウィキペディアがあるから手間をかけて調べようと思えば別に小説を読む必要はないのだが、時間かけてあちこち調べるよりも手っ取り早くまとまった本を読みたい、という需要はやはりあるはずだ。

つまり、需要はあるが供給がない状態、ブルーオーシャンになっているのだろうと思う。

伊勢物語』に関していうと、たぶん、これは高校生や受験生が見に来ているのだと思うが、ほかにも似たようなサイトはいくらでもあるのだけどたまたま、カクヨムだと検索の上位に来やすいとかそういう理由で見にきているのではなかろうか、と思う。極めて残念なことながら『伊勢物語』を読んだあとにカクヨムにおいてる他の私の作品も合わせて読まれているという傾向はほとんど無いと言って良い。

カクヨムでいうと『六波羅殿御家訓 現代語訳』もなぜかかなり読まれていて、といっても『伊勢物語』に比べると1%くらいだが、こういうものにはある一定の需要があることがわかる。

 

エウメネス』を読んだ後にたとえば『エウドキア』などを読んでくれていることは、まったくないわけではなさそうだが、しかし、私の著書を一通り全部読んでみようという人は、まだおそらく、ごくわずかしかいない。

つまり私は、教養ものとしてはまあそこそこ読まれてはいるものの、娯楽ものとしてはほとんど需要がない、という状態にある。カクヨムだとあるところまでは読まれるが、それ以後ピタリとPVが止まる。それはkindle本でも同じように言える。読まれないものは永久に読まれず、埋もれてしまい、存在しなかったことにされてしまう。

10年近く小説を書いてみてわかったのはそういうことだ。また、10年続けてて少しずつ認知はされてきているのだと思う。

 

いつかパタッとPVが止まるのではないか、というのは恐怖で、逆に、今後もじわじわPVが続く、というのはとても心強いものだ。

とはいえ、一番売れてる『エウメネス1』でさえ、実売は500冊くらい。しかし、これが今後1000冊、2000冊となったらどうか。出版社に持ちかければ書籍化してくれるかもしれない。

まったく無名の作家が広告費もかけずに500冊売ったということにどれくらいの可能性があるものだろうか。

華冑会。三島由紀夫について

私は三島由紀夫の著作をすべて読んだわけでもなくまたこれから読破してみようという気力もおそらくないのだが、今のところのざっくりとした予想を書いてみようと思う。

三島由紀夫の家系というのは平民出身の官僚だ。彼の父、平岡梓は開成中学から旧制一高、東大法学部に進んでいる。平民に与えられたごく普通のエリートコースだ。しかし三島由紀夫はなぜか学習院から東大へ行く道をとった。

彼の最初の長編『盗賊』は副題に「華冑会の一挿話」とあるが、つまり華族社会のことを彼は書きたかったのである。彼は官僚の息子だし学習院にいたから、平民の中でももっとも華族階級に近いところにいて彼らを観察しえた。そのいわば、上流階級のスキャンダラスな暴露話を書きたくて仕方なかったらしい。

この『盗賊』は川端康成に絶賛されたらしいがほとんど反響がなかった。実際長くて退屈な話である。三島由紀夫にとってはしかしこの長く退屈な話を書く必要があったしこの体裁でなければ華族のアンニュイな暮らしは表現できないのだ。またそこを川端康成は高く評価したが同時に世間に受け入れられなさそうなことを惜しみもしたのだろう。

私は、『仮面の告白』ではなくこの『盗賊』にこそ、三島由紀夫のすべてのエッセンスがすでに内包されていると思う。

仮面の告白』は自分自身を描いた私小説と言える。当時としてはセンセーショナルな内容だったから、たちまち世間に認知されるに至った。しかしながらこれもまた長くて退屈な話には違いない。

金閣寺』に至っては単に金閣寺を焼いた男というこれまたセンセーショナルな話題を小説にしたというにすぎず、まあ、一般受けはするかもしれないし、外国人にも面白がられるかもしれないが、しかしやはり、退屈で長い話に過ぎない、とも言える。

その他の小説はおおむね売れっ子作家になったあとの頼まれ仕事のようなものだろう。いちいち読むほどの価値があるものがそれほどあろうか。

で、三島由紀夫は死を覚悟した。そこでもう一度、「華冑会」の話を書いてみたくなったのではないか。自分が死ぬ前に、自分が売れる前に書いた小説をもう一度リメイクして、広く読んでみてもらいたくなったのではないか。『豊饒の海』、特にその第一部『春の雪』は『盗賊』に題材が酷似している。そしてこの『春の雪』こそは、私が見た限り、三島由紀夫の作品の中ではとりわけ面白いのである。

作家が最初に書いた長編小説ほど、作家自身がほんとうに書きたかった作品に違いない。その上彼はそれを再び書いて彼の最後の作品にした。よっぽど書きたくて仕方なかった。よっぽど人に読ませたかった。よっぽど後世に残したかったのだ。

三島由紀夫はほんとうは何を書きたかったのか。

三島由紀夫は自決にあたって輪廻転生を信じたくなったのだろう。だから『豊饒の海』はああいう構成になった。しかしながら、彼がほんとに書きたかったのは、彼がほんとうに愛してやまなかったのは、「華冑会」の退廃した世界、もはや二度とよみがえることのない虚構の世界だったのではないか。ああいう世界は奈良時代にも、平安時代にも、鎌倉時代にも、室町時代にも、江戸時代にもなかった。日露戦争の勝利から第二次大戦の敗北まで、わずか40年ばかりしか存在しなかった。彼の文体、彼の文章の美しさというのはその世界を描くときにもっともしっくりとくる。なぜなら三島由紀夫が彼の青春時代に憧れてやまなかった世界だから。彼そのものが作られた世界だから。

この華族というものは明治政府が生んだ虚構社会だ。人工的に作られたフィクションの世界だ。そして彼はもともとその外の世界の人だ。しかしながら、いや、だからこそ、外側から、マジマジと、その世界を客観的に観察し得た。もし彼が最初から華族だったらあんな屈折した小説を書くはずがなかった。中にいた人ならその虚構に最初から気づいてしらけてしまうだろう。だがその「華冑会」の外にいて、いわばセレブに憧れるマニアであったから、あんな小説が書けたのである。

おそらく彼が守りたかったのは天皇ではなく華冑会なのだ。

明治政府が作り上げた戦前の皇室制度というものが華冑会を作った。その制度が失われれば華冑会もまた失われる。だから天皇人間宣言などしてはならなかったのだ。「華冑会」がよみがえらなければ生きていても意味が無い。そうも思ったかもしれない。

彼にどうして天皇などというものが理解し得ようか。天皇の実態を想像し得ようか。彼に見えていたのは、目の前の現実であったのは華冑会だったのだから。

コロナに限ったことでなくマスクはしないよりはしたほうが良いに決まってるし、遠隔で仕事ができることはしたほうが良いし、通勤電車の混雑なんてものは首都移転でもやってさっさと解消すべきだし、年寄りは風邪引かないように冬は家でじっとしてるべきだし、居酒屋は空いてて広いほうが快適だし、どれもこれも別に全然コロナに限ったことじゃないし、コロナが無くなった後も多分そういう習慣は社会に根付いたまま残るに違いない。

コロナはもはや去年のコロナではない。少しずつ変異しているから。まさに「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」だよ。

今回のこのコロナの馬鹿騒ぎも、人間はプラシーボがなければ生きていけない、もしくは、プラシーボはほんとの薬と同じくらいの効果がある、ことを証明しただけだ。

鯉の餌

audible なんだが、結局、1ヶ月に1冊1500円で audio book を買う、という仕組みなのだが、定価で買えば 3000円とか 4000円するけど欲しい audio book があれば数ヶ月は契約しておいてコツコツ買うのがお得、というサービスなのだと思う。

実を言えば数冊くらいは欲しいのがあるんで、一応契約は続行しようかと思っている。

 

最近やっと私は気づいたのだが、自分が読んで面白い本、つまり自分に読ませるために書いた本と、人に読ませて売る本とは、自分が食べて旨い料理と、池の鯉にやる餌くらいの違いがある。私が蒔いた餌を鯉が食って旨いかどうかなんてことは考える意味すらない。鯉が食うか食わないか以上のことを考えても無駄だ。ペディグリーチャムやチャウチュールを作っている人が、犬や猫がほんとに旨いと思ってるかなんて考えてるわけがない。ただペットが喜んで食えばそれでよいのだ。飼い主が金を払う気になればそれで良いのだ。

もしものを作って売りたければ自分で食べたいものを作ってはならない。鯉が良く食べるものを作らなくてはならない。当たり前のことだ。気づかなかったわけではないが、まさかほんとうにそうだとは思えなかったのだ。でも今では完全に理解した。しかも、自分が書きたい本、自分で読んで面白い本はもうほぼ書き終えた。これらの本が埋もれるのは惜しいから、売れる本を書いて、そのついでに私がほんとに面白いと思う本も読んでもらえるようにしなくてはならないと思う。

実際もう、自分が書きたい本を書くのには飽きてしまった。すでに書いた本をこつこつ手直しすることはまだ続けている。盆栽をいじるようなものだ。

では私に売れる本が書けるだろうか。わからん。努力はしてみよう。

 

安藤百福が47歳からインスタントラーメンというまったく新しい事業を始めて、私もまた同じくらいの年で、それまでの人生の延長で生きていくのをやめて、死ぬまでに今まで試したことがない才能を試してみようと思い、小説なんぞを書き始めたのと似てるなと思った。

百福はたまたま自分の事業が破産したから一からやり始めたのだろう。私はもともと飽きっぽい性格だからなのだと思う。飽きてしまうと、まだ自分ややり残していることがあるならこんどはそっちをやろうと思ってしまう。自分にはまだ試してない才能が残っていると思う。それが良いのか悪いのかよくわからん。若い頃からずっと同じことをやってその蓄積で大きく当たったり功績をみとめられればそりゃ面白かろうが、大して注目もされずだらだら続けるのは私には耐えがたい。

audible

いちいち本を読んでいる暇がないので amazon の audible というのを試してみたが、要するにこれは、月額1500円払って1冊、朗読本が読めるだけ、ということではないか。

さすがにこれじゃどうにもならない。たぶん無料期間のうちに解約すると思う。

 

youtube で english audio book with subtitles で検索すればそれっぽいのはいくらでも出てくるからそれを聞けばよかろう。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹

『評伝 小室直樹』下巻p.395

崎門の学に連なる栗山潜鋒。 

 これは間違っている。たぶん小室直樹もそうは言ってないはず。でもそんなふうに読者は思うだろう。栗山潜鋒は水戸学とも崎門学とも関係ない。独立独歩。

従来、皇位は長氏相続法にしたがって、順に、白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇と継承されてきた。

 この認識も間違っている。白河院は、天皇家摂家に対抗するため、院政を発明した。これによってはじめて皇位の直系相続が実現した。藤原氏全盛時代は、さかんに兄弟間で相続している。それは摂家によって皇位をたらい回しにしたから。摂家の影響力を排除するため意図的に白河院は直系相続にした。栗山潜鋒だって当然、長子相続が天皇家の伝統でもなんでもないことは知ってる。問題は鳥羽天皇白河院がせっかく確立してくれた直系相続を捨て兄弟相続を復活させたことだ。

皇位継承順位は、天倫の序すなわち長子相続法によって定められるべきである。

その根本規範が、ほかならぬ、上皇と関白によって破壊されたのである。

救いがたい急性アノミー(無規範状態)が全日本を覆い尽くすであろう。

 この認識もあり得ない。もしそうなら、藤原道長の時代に急性アノミーが生じていなくてはならない。そんなことはなかった。少なくとも表面上は世の中は平和に治まっていた。藤原基経陽成天皇を廃して光孝天皇を立てたときにもものすごいアノミーが発生しなくてはならない。そんなことは起きてない。

後白河天皇が義朝に父為義の処刑を命じた。つまり天皇が「父殺し」を命じた。そのため天皇政権が終わり武士政権となった。

 これはまあどうかなあ。そういう解釈も一応は成り立つかもしれない。

 

 

ま、ともかく、小室直樹は、山崎闇斎の崎門学や、山鹿素行の『中朝事実』などを重視する一方で、賀茂真淵本居宣長国学を軽んじ、真淵や宣長に濡れ衣を着せようとする。これはおそらくは、小室直樹が影響を受けた平泉澄という人がそういう考えの人だったからなのだろう。国学以前日本では、中国と日本とインドの宗教はすべて混在していた。その上で、神道よりも仏教や儒教のほうが優れている、という舶来主義が主流だった。それを、混交したままひっくり返して、実は日本が本家本元だったんですって言い出したのが垂加神道。日本ルーツ説。

国学と他の学派との本質的違いは、国学は日本古来のものとそれ以外のものを切り分ける古文辞的作業をおこなった、ということだ。そこには当然、日本古来のものを尊ぶ思想が付随してくるわけだが。

宣長はきちんと『古事記』を分析して、日本固有のものを外来のものから分離し、その上で神道と仏教と儒教を比較して、神道のほうが仏教や儒教よりも優れている点がある、ということを主張したにすぎない。儒教には儒教の良いところがあり、仏教には仏教の良いところがある。しかし、ここは日本であって、インドに仏教があり中国に儒教があるように、日本には日本古来の神道がふさわしい、そう言っているのにすぎない。その根本にあるのは相対主義であり、日本が世界で一番優れている、というのが本来の主張ではないし、まして、中国やインドにも神道を押しつけようというものではない。同じように、キリスト教徒はキリストを拝めば良いだけのこと。それは、宣長上田秋成の論争を注意深く読めばわかることだ。日本が一番良い、絶対的に良い、などと言ってるのは崎門学や中朝事実のほうだ。

 

小室直樹は、アノミーという理論が先行していて実証が伴っていない。歴史を緻密に検証していけば、その理屈では通らない事例がいくらでもある。それらを一つ一つ潰していかないと理論は実証できない。

 

栗山は天皇の失政を強く激しく批判しながら、それでもなお天皇システムを肯定する。

 違うんだな。それは違う。それは、ただ単に北畠親房の受け売りで天皇を批判するだけの安積澹泊とも違うし、天皇を激しく批判しながら天皇を崇拝する三島由紀夫とも違う。栗山潜鋒が言いたかったことは朝廷に天皇を補弼し武威を示し天下に敷き行う臣下がいないので、その大権が武家に委任されているのであり、それは太古から連綿として変わらない、ということを言いたかったのである。それはつまり幕府が三度交代してはじめて、栗山潜鋒がその日本固有の歴史を観察して発見した知見だ。つまり、天皇システムを肯定しているのではなく、日本固有の歴史的法則性を発見したのだ。それは北畠親房の時代にはまだ判然としていなかったから、親房には見いだせなかった。易姓革命の原理による儒学でも説明が付かなかった。中国にはない日本固有の必然的歴史的法則が作動した結果、徳川幕府が成立した。潜鋒が言いたかったことはまさにそれ。すなわち栗山潜鋒の理論は佐幕理論なのであり、倒幕理論ではない。あり得ない。天皇は絶対だから天皇は不徳でも良い、なんて言ってない。

さらに本居宣長は潜鋒の理論をいたく気に入って、これを「みよさし論」として完成させて、幕府の最高権力者である老中松平定信が追認し採用する形でオーソライズしたから、大政委任論が成立したのである。そしてそこから自然に幕末の大政奉還論が生まれてくる。何段階ものステップを経て、徳川の250年間にわたる治世の中で徐々に熟成されてできたものだ。国学は決して天然自然が良いとか神様のあるがままが良いなんてことは言ってない。少なくとも宣長はそんな脳天気なことは言ってない。宣長は彼の歌論において、古い時代には古い歌、新しい時代には新しい歌がふさわしい、歌は時代時代で異なる、混同してはならないと明確に言っている。みんな宣長がいかに政治に関心をもち関わっていたかをしらんのだ。宣長の門下にはだんだんと武士が集まってきた。その中には尾張紀州で幕政に責任ある地位にいる者もいた。彼らは宣長に政論を求め、宣長も応えた。宣長国学を政治に応用しようとして紀州藩尾張藩に働きかけ、松平定信ともコンタクトを取ろうとしていた。松平定信宣長を表面上無視したが、賀茂真淵を師と仰いだ田安宗武の子である松平定信国学を知らぬはずもない。実は深く宣長の影響を受けて政治に生かしていたのだ。

決して三島由紀夫と栗山潜鋒は同型(アイソモーフィック)ではない。

 

もっと他にも間違いがある。『禁中並公家諸法度』は摂家天皇家や公家を支配して公家社会の頂点に立つために家康にお願いして幕府の権威で認めさせたものだ。その張本人は近衛信尹。決して家康が天皇に押しつけたものではない。紫衣事件も、摂家と幕府が結託して寺社を管理しようとしておきたものであり、天皇とは直接関係ない。確かに後水尾天皇は幕府を恨んでるような歌を詠んだりもしている。しかし、後水尾は近衛信尹の甥であり、また後水尾の同母弟は近衛家を継いで信尹の養子になったりしている。じつは天皇摂家ツーカーなのであり、公家支配は摂家が考えたものであり、公家支配のコツを家康に伝授したのも実は摂家なのである。