不確定申告

tanaka0903

小説の書き出し

アマストリーにギリシャ語を教えるよう、王は私にお命じになった。

2013年3月17日にKDPで『エウメネス』を出したときの書き出しはこうなっていた。 ずっと最近までこの出だしのままだった。これを私は

My Lord charged me to teach her the Hellenic language.

と訳してみた。「命じる」だが、command, order, charge, assign, appoint など、いろいろ候補がある。 ここでは王から私に一方的に仕事を課した、という意味合いで charge にしてみた。 discharge だと任務を解く、兵役を終わらせる、というような意味がある。

Greek という言葉は使いたくなかったので、Hellenic とした。 Hellenistic だとさらに意味が違ってくる。 Greek はラテン語由来であり、ローマから見たギリシャを意味する。 ギリシャ人自身は自分たちを Hellene と呼び、自分たちの国を Hellas と呼んでいた。 ローマが勃興する以前の話なのでラテン語由来の単語をできるだけ使いたくなかった。 日本語だとラテン語を使わず、たとえば漢語で代用するってことは割と容易だが、英語だとそうはいかない。 漢語はギリシャとローマの関係に中立だから良いが、ギリシャのことをローマの用語で書くとローマ史観や西洋史観がそこに混入してくるので嫌なのだ。ギリシャ史観が入ってくるのはある程度仕方ないとして、私としてはこれを西アジア史観で書きたいのである。

逆に日本語だと、「ギリシャ」を「ギリシャ」以外の単語で代用するのはほぼ不可能だ。この問題についてはもう少し時間をかけて検討したい。

「王」をどう訳すかも少し悩んだ。King にしようかと思ったが、あまりに唐突なのでここではやめておいた。あきらかに The King ではない。My King か Our King で良いかもしれないが、無難に My Lord にしておいた。以下作中では King と Lord どちらも使っている。

英訳だと Amastri という固有名詞すら出てこない。 で、この書き出しは、自分としては割と気に入ってるのだが、これだと、宮廷のどこかでお姫様が執事か何かに勉強を習う話のように思えるが、先まで読んでみたら違った、みたいなことを言われた。王様とお姫様が出てくると何かディズニーランドかトランプの絵札かチェスの駒のようなものを思い浮かべるのは日本人の悪い癖、西洋の悪い影響なので、わざとそのように勘違いさせておくのが良いと思い、そもそも私がこの書き出しにしたのは読者にそういう勘違いをさせのちに意外な方向へ話を展開させる、という意図もあったのだが、私としては少し思い改めて、出だしを次のように書き換えることにした。

カイバル峠を過ぎ、ヒンドュークシュの山嶺から下界に降りると、ようやく春が我らを出迎えてくれた。雪が消え残る岩山は新緑に萌える草原に連なり、トネリコの枝にはそよ風が渡り、クロウタドリが口笛を吹いている。王は進軍を駐め、ここを今日の宿営地に選んだ。

兵士らが薪を集め火をおこし、幕舎を建てている合間に、私は木の間に天幕を張って日除けにし、テーブルと椅子を出して文房具を並べる。勉強を教えるにはあまり適していないところだ。さっきからずっと彼女は、岩場の隙間に咲いている黄色いスミレソウや、青い空を飛ぶ白い蝶に気をとられている。

At last the spring welcomes us who now descend the Kaukasos mountains crossing the Khyber Pass. Snowy rugged scenery turns into green grass fields, warm wind blows and black birds are whistling in ash trees. Our Lord stops marching here to fix today's camp.

While soldiers are collecting woods, pitching tents and making fires, I spread a sheet between trees to avoid sun exposure, place a table and chairs under the shadow, prepare for writing. This is not a good place to study something, for the yellow primroses blooming in rocky meadows and white butterflies flying over the blue sky constantly attempt to attract her attention.

一箇所に定住していれば住民が春が来るのを迎えるのだが、逆にここでは、遠征軍が山から下りたので下界で春が出迎えてくれた、というわけで、そこは少しひねった。出だしをひねろというリクエストがあったので。 トネリコクロウタドリや黄色いサクラソウや白い蝶というのは『フローニ』の使い回しだ。 英文中ではヒンドュークシュを Kaukasos と書いているのだが、これはアッリアノスなどがそう書いているからだ。当時この山がアヴェスター語もしくはサンスクリット語でなんと呼ばれていたのか、よくわからない。

カイバル峠やガンダーラを知ってる人にとってこの序章はある種の旅情を喚起させるのだろうが、知らない人にとってはいきなり未知の地名がわらわら出てきて読む気が失せるのだろう。私がトールキンのファンタジーを読むときのように。これはもうしょうがない、想定する読者ではなかったと諦めるしかないと思う。